第20話 忌子
夢をみた。
柔らかな木漏れ日を反射させる水面。森の中の泉は穏やかで、周囲の空気は水と同じく澄み切っている。
その泉のほとりに、アリーシャは座っていた。足先が透明な水の中に浸かっている。冷たさは感じず、反対に腿には何やら優しい暖かさを感じた。
視線を落とす。自分の腿を枕に、幼い子供が横になって眠っている。背を丸めて、こちらの腹に顔を向けて。黒い横髪に隠れて顔は見えないが、吐き出す寝息が少しだけくすぐったい。
寝食を共にした孤児だろうか。ぼんやりとそう思い、違うなと気が付いた。夜の帳のような美しい髪を指先で掬い上げる。隙間から覗いた瞼。その向こうに隠れた瞳が宝石のように美しい赤だとよく知っている。
「ノルヴィスさま……」
アリーシャが呟いた。声にしたつもりだが音が出たのかはよく分からなかった。ノルヴィス様、ともう一度繰り返す。少年は身じろぎもせず、穏やかな寝息を立てていた。
眠っているのならば良いだろう。そもそもどうせ夢なのだ。この際言いたいことを言ってやろうと思った。
「貴方は、王になどならずとも良かった。剣など持たなくて良い。食事に苦痛を感じる必要もない。眠れぬ夜には空でも眺めていれば良い。私のような者など、捨て置いて良かったのです」
少年の髪を梳きながら、アリーシャは子守唄のように囁く。この幼子が、やがて手に負えない重荷を背負うことを知っている。鍛え上げられたはずの身体が、痩せ細っていくことを知っている。暗い夜に囚われてしまうのだと、よく知っていた。
アリーシャが身を屈める。柔らかそうな小さな耳へと唇を寄せた。
「泉へは、来てはなりません、ノルヴィス様」
この身が碌でもない半魔の血を引くというのであれば。呪いを過去へと送るぐらいのことをやってのければ良い。そのようなことを考えてから、自分も随分と空想家になったものだと苦笑いが浮かんだ。少年から離れるように身を起こす。
辺りは静かだ。ふと、寝息が止まっていることに気が付いた。髪を撫でていた手が掴まれている。子供の手ではない。
いつの間にか、月を背負って青年が立っていた。齢は十八か二十か。艶やかな黒い短髪に、通った鼻筋。少し不機嫌にも感じる神経質そうな表情が浮かぶ。
初めて出逢った時と同じ夜空。同じ相貌。何という都合の良い夢だろうか。
長めの前髪の間から、威圧的な紅の双眸がこちらを見据える。冷酷そうに見えるそれらがその実、悲しいほどに優しいのだと、誰よりもよく知っていた。
「ノルヴィス様、私を選んではいけません。どうか、あちらへ」
アリーシャが一礼し、泉の反対側を指差す。夜空に覆われたこちら側と違い、対岸には穏やかな日光が差し込んでいた。
足に力を込め、よろめきながら立ち上がる。痩せ細った子供の足。纏ったボロ布の肌を刺す感触が懐かしい。苔の付いた指先で、尚もアリーシャは対岸を指す。
「こっちへ来ないで。私と出会わないで」
幼い声が夜風を揺らす。
ふっと、笑い声のようなものが耳に届いた。
「そう俺を見くびるな」
次の瞬間には身体は青年の腕の中にあった。押し返そうとした手が、やがて力なく身体の横へと落ちる。
汚れる、とアリーシャは呟き、強く目を閉じた。
この姿で仲間たちと共に過ごした頃、身なりの良い地上の人間に何を言われたところで平気だった。
館で碌な風呂場も与えられなかった頃、客に何を要求されようと、床に広がる冷たいスープを舐めようと、面倒の他に感じるものはなかった。
薄鎧を纏って冷たい王城の廊下を歩いた頃、どのような後ろ指をさされようと、どれだけ同族を殺めようと、目的のために誰を利用し陥れようとも。それで痛む心など、とっくに地下水道へと流して手放したはずだった。
「私は、貴方の信念を、汚してしまう」
狭まる喉奥からそれだけを絞り出す。返事がない。アリーシャは固く瞼を閉じたまま、重い両手を持ち上げた。震える指先で衣に縋り付く。
ぐっと、背に回された腕に力が増した。
「見くびるな、と言った。俺は、俺の意思で、この道を選んだ。この泉に立ち寄れたことは、お前という拾い物ができたことは、俺の人生における最大の幸運だ」
そんなことを男が告げた。もしや意趣返しなのだろうか。実に聞き覚えのある台詞だった。
アリーシャがゆっくりと瞼を持ち上げる。目の前の自分の手は、剣を握る者らしく少し筋張っていた。
「碌でもない、とは仰らないのですね」
「三食の過剰な飯に天蓋付きの寝台だ。ばちが当たるだろうよ」
呆れたような笑い声の後で、男の口が耳へと寄せられる。
「迎えに行く。死んでいたら許さん」
善処する、とそう答えようとしたところで、アリーシャの足は浮遊感を覚えた。
大きく瞬きをする。泉の光景は掻き消え、代わりに退屈な牢の景色が目に映り込んだ。ちょうど刑吏が交代しているのが格子の向こうに見える。
肌の裂けた脚が少し痛む。そこに重さと温もりが残っているような気がして、アリーシャは音を出さずに笑った。
◇
「出ろ」
捕えられてどのぐらい経ったのかは分からないが、刑吏の男が苛立たしげにそう言って鎖を引いた。鎖はアリーシャの両手を縛る拘束具に繋がっており、よろめきながら数歩前に出る。
ほとんど引き摺られるようにして牢から出ると、そのまま刑吏は階段を登って行く。地上に繋がる扉が開き、目を刺すような廊下の明かりと、好奇と嫌悪の視線が向けられた。
城下町といった衆目の中で処刑を行うのかと思ったが、予想に反して男の足は王城の奥へと進んで行き、また階段を登り始めた。城で最も高い塔は、この身体で登るのは骨が折れる。途中数度転びかけ、叱咤され、ようやく目的の場所へと辿り着いた。
故アルバート王子の部屋はあの夜と大した変化はなかった。
広い部屋の中央に置かれた椅子にまた身体が縛り付けられる。まさか亡くなった息子の部屋で処刑を執り行いたいとは。あの王は実にいい趣味をしていると、布を噛まされた喉奥からくぐもった笑い声が漏れ出た。
そのまましばらく放置される。窓から入ってくる日差しが赤く染まり始めた。ようやく扉が開き、そこから体格の良い男が衛兵を引き連れて入って来る。刑吏を下がらせると、王はアリーシャの目の前に椅子を置き、どかりと荒々しい動きで腰掛けた。
「全くもって、忌々しい」
それが開口一番の挨拶だった。直接言葉を交わすことは、あの最初の謁見以来だった。
王の指示で衛兵の一人がアリーシャの口の布を外す。どうやら発言が許されたようだと、外れかけた肩を竦ませてやる。
「王自らのお出ましとは、恐縮至極にございます」
一礼したいところであったが何せこの状態だ。そう続けると、王の大きな目には一層憤怒が増したように思った。
「貴様が何も吐かずとも、魔族の住む森の所在は大方分かった。木々ごと全て焼き尽くしてくれる」
「それをわざわざ、ご報告に? お優しい国王様です」
ばちん、と弾ける音がした。
短気な王は一度平手打ちを喰らわせるだけで意外にも満足したらしい。大きな身体が再び椅子へと腰掛けている。
はあ、と苛立たしげな息が男の口から漏れ出た。
「あの騎士団長と、挙句ニコラまでをも唆したな。知る必要もないことを……全く忌々しい」
アリーシャはちら、と王の後方に立つ衛兵を見る。
目の前でこんな話をするとはそれほどまでに口が硬いのかとも思ったが、部屋に入ってからの挙動を見るに、恐らくは耳を潰されているのだろう。
「国王様は瘴気の真実をご存知で、尚も森に攻め入ると? それで、貴方の次の王の代において、絶望だけを残された民は一体どうするというのです?」
裂けた舌でできる限り恭しく尋ねてやったが、返答はなかった。つまり、それが答えだった。
アリーシャは顔を伏せた。やがて喉奥から冷たいものが込み上げる。笑いだった。
「……ノルヴィス殿下と初めて登城した時、貴方は私の顔を見るや、一瞬だけ動揺されましたね。この顔と角に、見覚えがありましたか」
ゆっくりと顔を上げながら歌うように囁く。少し焦点が合わなくなったような気がする視界に、ぎょろりとした特徴的な目玉が映り込んだ。王は顔色を変えず、しかし呼吸が半拍乱れたことをアリーシャの耳は確かに捉えた。
初めて見た時から、薄々と確信していた。
黙ったままの王に、アリーシャは静かに続ける。
「貴方が一番知られて困るのは、魔族と瘴気との関係ではない。魔族と、王族との関係だ。かつて瘴気の問題を解決するがために、森に住む彼らに近付き、擦り寄り、まさか子を成しましたか」
「まこと、悍ましい忌み子よ」
大きな目がアリーシャを睨む。
記憶の片隅に残る冷たい目。遥か大昔、深い森を逃げ惑う最中。幼い自分を抱えた何者か、恐らくは母親か何かの肩越しに見たのと同じ、殺意に満ちた嫌な目。
それを真っ直ぐに見返しながら、アリーシャは呆れたように薄く笑ってみせた。
「おおかた瘴気を浄化する彼らの力が欲しかったのでしょう。しかしそれで子供まで産ませるとは理解ができませんが……参考までにお聞きしても? 何故、母を裏切ったのです?」
「裏切ったはあの女の方だ」
王は怒りを滲ませた声でそれだけを答えた。
男が過去に魔族の女と成した子供。殺し損ね、森へと追放したはずのそれが、よりにもよって対立するノルヴィスの手で王城へと舞い戻った。
自らの治世を揺るがし得るその最大の疵瑕を、例えば魔族を逃すといった不祥事でもあれば、滞りなく処刑してやることができた。そのような旨を、もはやさして興味もなさそうに王は続けた。
「或いは同族の貴様であれば森の所在でも吐くかと思うたが」
「残念ですが、どなたかが不義理な真似をしたせいで、彼らの人間嫌いは年々強まるばかり。狭間の子である私に優しく教授してくれるはずがないでしょう」
くすくすとアリーシャが笑う。
何やら王の憤怒が増したようにも感じたが、それすらも可笑しかった。
自分を手放した母とこの男の間に何があったのかなど今更微塵も興味はない。しかし、自分の発覚で統治が揺らぐことをそれほどまでに恐れ、それでもわざわざここへと足を運び、娘に冥土の土産を託す小心ぶりが、余りにも滑稽だった。
愚かしい。アリーシャは笑いながら呟いた。
「本当に、ノルヴィス様のお父上だとは思えない愚鈍ぶり。ああ、血の繋がりはないのでしたね。前王妃様にも袖にされたのでしたか。ふふ、まさに瘴気が国を覆わんとするこの期に及んで尚も己のことしか考えない醜悪さ。迫害に耐えかね、護るべき幼子を捨てた薄情な母には実にお似合いで――」
滔々と捲し立ててやっていた言葉は、頬への衝撃によって途切れた。
先程よりも強い平手打ち。アリーシャは頬の熱と片目に浮かんだ生理的な涙、少し揺れる視界に頭を振りながら、やはり拳でないのだなと実につまらないことを思った。
立ち上がった王はこちらを見下ろしている。
「処刑は日の出だ。ここでアルバートに詫びながら苦しみ抜いて死ぬがいい」
「国王様も、ご観覧頂けるので?」
「貴様の面など、死体ですら見とうはない」
それだけを吐き捨てるように言って、王は衛兵を引き連れ部屋を後にした。扉の向こうでは刑吏に碌でもない指示を与えているのが聞こえる。
アリーシャは軽く体を揺すると、口に溜まった血を床へと吐き出した。そのまま、べ、と赤くなった舌を扉に向かって突き出す。深く裂けたそこには歪んだ赤黒い紋様が浮かび上がり、傷へと絡み付くように広がっていた。
あの暴虐な小心者にも果たして罪の意識があるのだろうか。感動的な親子の対面があって僥倖だったと、アリーシャの口角が上がる。
「本当に……私の父らしい、愚昧さですよ。ノルヴィス様を、あの美しい人を追い詰め、夜に閉じ込めた愚王。苦悶の死をもって、後悔するがいい」
そう言ってアリーシャは、まるで歌うように呪言を重ねた。
窓の外の赤い光はすっかり弱くなり、夜風が当たる音が聞こえていた。




