エピローグ 薄明の王国
あの惨事からそろそろ三年が経つ。
国王に与えられた執務室で、レオンハルトは山のような書束を差し出した。対するニコラは執務机に座ったままそれらを受け取り、ずしりとした重さに少しだけ眉を寄せた。
「瘴気に飲まれていた東の農村は?」
「何とか立ち入れるようにはなりましたが、作物が採れるようになるにはまだしばらくかかるかと」
レオンハルトの返答に、ニコラはそうか、と目頭を押さえながら頷いた。
「もうじきまた寒い季節がやって来る。国庫を一部開放してでも、何とか今年は餓死者を減らしたい」
「承知しております。夏の間の蓄えが去年よりは多く残っております。家屋の整備も進み、屋根を持たない者の数も減りました。今年はより多くを救うことができるかと」
「しかし、傷付き涙を流す者がいなくなりはしない。先週議題に挙げた娼館の解体の件は」
机上に広げた書類を捲りながらニコラが尋ねる。
レオンハルトは首を横に振った。
「一部の貴族、また館の主人たちと取り引きがあるのであろう商人たち、さらに市井からも反対の声が」
「来週までに通してください。そこから保護した者たちを住まわせる場所の準備も要るはずです。彼らに協力の要請を」
ニコラが一枚の紙を提示する。羅列されている名前はレオンハルトには馴染みのあるものばかりだった。かつて王城から追われ、その後ノルヴィスの屋敷に勤めていた者たちだ。
紙の上に立てていたニコラの指が滑らされ、その下からもう一枚が現れた。
「既に彼らが調べてくれた情報です。反対派にとっては実に痛いところであるので、きっと首を縦に振ってくれることでしょう」
「承知いたしました。が、ニコラ様。またお言葉遣いが」
「すみま……すまない、レオンハルト。やはり……兄様の真似事というのは、僕にはどうにも慣れませんね」
そう言ってニコラは苦笑し、大きな椅子から立ち上がった。
うーん、と凝り固まった身体を伸ばし、窓の方へと歩みを進める。そこから見える城下の景色は、三年前とさほど変わらないようにも見えた。
「レオンハルト、僕は上手くやれていますか?」
じっと窓を見つめながらニコラが呟く。
すぐにその隣へとやって来たレオンハルトが、同じく外を眺めながら頷いた。
「ニコラ様が王となられてから、この国は確実に良い方向へと変わっております。ここからではお分かりになられないかもしれませんが、城下町の石畳も整備され、街灯も増え、以前よりも随分と明るい街となっておりますよ」
警護をするので今度共に歩いてみるかとレオンハルトが問う。
ニコラは少し考えてから静かに被りを振った。
「僕にはまだその資格はありません。ノルヴィス兄様とアリーシャ姉様が、名と命を手放してでも守ろうとしてくれた国です。もっと良くしなければ……僕は、お二人に会わせる顔がない」
ぐっと窓枠に置いた手に力が籠る。筋張った指が少し白くなっている。
レオンハルトはため息を吐き、少し大袈裟に肩を竦めてみせた。
「国王様、失礼を承知で申し上げます。いくらニコラ様がご自身を鍛え、また貴族諸侯と渡り合うことがお上手であろうと、そのようにお一人で何もかもをやろうとされるのは傲慢では?」
片眉を上げながらレオンハルトは滔々と告げた。
言葉の途中から彼へと振り返っていたニコラは、しばらく呆気に取られたような顔をしてからくすくすと笑い始めた。
「それは……アリーシャ姉様の真似でしょう。さては以前に同じことを言われましたね」
「これよりももっと酷い言い振りでしたよ。驕るな。気分が悪い、と」
レオンハルトが苦笑し、ニコラはさらに吹き出した。姉様や、それから兄様らしい。そう笑い混じりに言ってから、ふう、と息を吐き出す。
ニコラが身体ごとレオンハルトの方を向く。
「レオンハルト、私の治世は未だ道の途中だ。ようやく魔族の方とも交渉ができるようになり、瘴気に飲まれた土地も幾許かは回復するだろうが、私の生きている間に全てを解決することはきっとできはしない」
そのようなことをニコラが告げる。美しく伸ばされた背筋。よく張られた胸。若き国王の宣言を、騎士団長であるレオンハルトは同じく正した姿勢で遮らずに聞いた。
ああ、とニコラが感慨を込めた声で頷く。
「私だけでは理想を叶えることはできない。だが、次世代により良いものを遺すことはできるはずだ。レオンハルト、貴公らの惜しみない協力があれば」
ニコラが手を差し出す。レオンハルトは片膝をつくと、その手を恭しい動きで取って首を垂れた。
「僭越ながら、お支えさせて頂きます、ニコラ様。我らの剣が、正しく国のためにあらんことを」
そう言ってレオンハルトが顔を上げる。透き通った青い双眸が、真っ直ぐに力強くニコラの顔を見た。
数秒の沈黙の後で、ニコラはくしゃりと顔を綻ばせた。楽しそうに笑いながら、レオンハルトの手を引いて彼を立たせる。
「そのために、まずは食事です。今日は午後の会談までに時間があります。レオンハルト、良ければ城下でおすすめの店を紹介してはもらえませんか?」
レオンハルトが目を丸くする。小さく息を吐いてから、まだ自分より頭一つ低い青年に向かって眉尻を下げた。
「それはもちろん構いませんが……どうぞお姿はお隠しになってください。いきなり国王が現れれば、店主も、食事をしている者も驚きます」
ニコラが頷き、戸棚から外套を出そうとしている。
その背を見ながらレオンハルトは少し困ったように目を細めた。
◇
夜、王城の自室へと戻ってきたレオンハルトは、脱いだ外套を少し気怠げに椅子へと投げた。
昼間はニコラと共に街を歩き、その後魔族の代表との会談に同席し、日が暮れてから再度街の巡回を済ませて来たところだった。
ニコラにはああ言ったが、街での喧嘩や犯罪は毎日のように起こり続けている。確かに以前よりも鳴りを潜めたようであり、それこそ日中であれば王がお忍びで出歩くことも可能ではあったが、夜中であればそうはいかないなとレオンハルトは思った。
どさり、と椅子に腰掛ける。目の前の執務机には山のような仕事が積まれている。そのうちの一つを手に取り、文字を書き付けかけてから、レオンハルトは無造作にペンを転がした。
インクをつけすぎたのだろうか。紙面を転がるペン先から黒褐色がじわじわと滲んでいく。これが公的な書類でなく、騎士団へと向けたもので良かった。彼らであれば多少の汚れには目を瞑ってくれるだろう。
そう考えながらレオンハルトは空になった手で机の引き出しを引いた。そこから慣れた動きで黒い羽を取り出す。目の前に翳すと、少し毛羽だった毛先には、黒っぽい汚れがこびりついていた。
「アリーシャ、私は……国を守護するべき者の頂きとなれているだろうか。この剣で民を……この国を、守れているだろうか」
誰ともなしに呟いた言葉は薄暗い部屋の壁へと吸い込まれて消えた。
深いため息を吐き、レオンハルトは手にした羽を戻そうと、引き出しへ視線を落とす。ふとその奥の方に何かが見えた。首を傾げながらさらに引き出す。小さな袋が姿を現した。
レオンハルトがそれを持ち上げる。少し警戒しながらそっと口を開き、そこから立ち上った匂いに一瞬固まり、そして勢い良く中身を手のひらへと出した。
見覚えのある香草だった。母の生まれ育った国のそばによく生えている。滋養強壮にも効くこれが、何故ここに。そう思っていると、何やら袋の底が二重になっていることに気が付いた。
丈夫な布袋をレオンハルトの指先が難なく裂く。ころり、と転がり出たものに、レオンハルトはいよいよ目を見開いて、それから肩を震わせ始めた。
「ふっ、ははっ……ははははっ……!」
次第に大きな声を上げて笑いながら、レオンハルトは手にした物の匂いを嗅いだ。毒の気配はない、気がする。また怒られるのだろうかと、そう思いつつ、噛み千切ることもなく一口で口へと放り込んだ。
咀嚼したそれは、実に懐かしい香りだった。幼い頃、生家でよく食べた匂い。あの茶会で虚を突かれた味。自分で何度作ってみようとも、結局一度もまともなものにならなかった焼き菓子。
ごくんと飲み込み、レオンハルトは椅子から立ち上がる。振り返った窓の向こうは暗い。そのすぐ側へと近づいて、じっと目を凝らした。
「――!」
レオンハルトが息を飲む。遠く、夜空と森との境を縫うようにして、黒い影がふわりと舞っていた。
はああ、とレオンハルトが先程よりも深いため息を吐く。菓子を焼く元気があるのであれば、少しは手伝って欲しいと思った。とん、と指先が窓を叩く。
「君たちを捕えて言いたいことは山のようにある。だがそれは、ニコラ様の統治がもう少しだけ落ち着いてからだ」
そうどこか嬉しそうな、どこか恨めしそうな声で独り言を呟き、レオンハルトは振り返る。執務机へと向かうと山のような仕事へと戻っていった。




