第17話 正しき剣、間違った道
太陽が頭上を越して少し経った頃、アリーシャは招きに応じて訪れた客人を、ノルヴィスの屋敷の庭へと案内した。
男を椅子へと座らせて、自分は茶の支度をする。葉をポットへと放り込みながら視線を感じたので、顔を上げずに軽く笑い声を返してやる。
「申し訳ございませんが、今日は焼き菓子は焼いておりませんよ。何しろ急な会でしたから」
「……私をここに呼ぶと決めたのは、ノルヴィス殿下か?」
レオンハルトは身じろぎ一つせずにそう返答を寄越した。アリーシャはカップを温めながら肩を竦める。
「私は一介の侍女です。お屋敷にお客様を招くような権限は持っておりません」
「そうか」
それだけを答えてどうやらレオンハルトはこちらから視線を逸らせたらしい。ずっと感じていた鋭い圧がなくなったことにアリーシャは一つ息を吐いた。
レオンハルトがアリーシャに蛮行を問い詰めた日の夜、アリーシャはその顛末を余すことなくノルヴィスへと報告していた。
ノルヴィスの容体は随分と回復し、しばらく寝たきりだった身は今や屋敷を歩く程度であれば問題がない。私室の寝台に腰掛け、アリーシャの話を聞いた男は、そうか、とだけ返答した。
第一王子であったアルバートの死は、当然ノルヴィスの耳にも入っている。しかしそれが呪詛によるものであるということを、アリーシャは明言してはいなかった。そのようなことを今更、わざわざ言葉にするまでもなかった。
療養の間ずっと、ノルヴィスはアリーシャをはじめ屋敷の者とは必要最低限の会話しかしなかった。
故に、今朝急にレオンハルトを屋敷に招くと言われた時、アリーシャは少しばかり虚を突かれた。しかしそれがノルヴィスの判断であれば理由を問う必要もない。頷いてそのまま登城し、同じく少しだけ驚いた様子のレオンハルトを連れて屋敷へと戻り、そして今のこの状況だった。
中庭は静かで、抜ける風が植え込みの草木を揺らす音が聞こえる。以前の茶会と比べれば風が少し冷たくなったなと、そんなことを思いながらアリーシャはレオンハルトに二杯目の茶を差し出した。
「悪いな、待たせたか」
そんな声と共に、庭へと続く扉が開いた。アリーシャはすぐさまそこへと駆け寄ると、ノルヴィスの側に寄り添うようにしてゆっくりと歩く。
立ち上がり振り返ったレオンハルトが目を見開くのが分かった。療養中ということで薄着を纏ったノルヴィスは、以前よりもずっと肉が削げ落ちたことが一目瞭然だった。
少し時間をかけて椅子まで辿り着くと、アリーシャはノルヴィスをそこに座らせる。茶を注ぎ、ノルヴィスの前へとカップを差し出してから、ノルヴィスの口からは薄い笑い声が漏れ出た。
「人殺しが気を病んでいることが、それほどまでに可笑しいか?」
ガチャン、と机の上でカップとソーサーとが大きな音を立てた。大きな動揺を顔に浮かべたレオンハルトは、何かを言おうとして口を開きかけ、言葉を発さないまま再び椅子へと腰を下ろした。
太い指が茶で濡れたカップの持ち手を握る。ぐい、と残った茶を飲み干すと、レオンハルトはノルヴィスの顔を真っ直ぐに見た。
「貴方が、彼女に命じたのですか。アルバート殿下を暗殺しろと」
違う、と答えようとして、アリーシャは視線を感じて口を閉じる。一度だけこちらを振り向いたノルヴィスは、またレオンハルトの顔を見ながら少し気怠げにテーブルに肘をついた。
「まさか貴公が調べた余罪はそれだけだと?」
「……街での不審死、あれも殿下と彼女の所業なのですね」
「確信していることをわざわざ問うな。以前に言ったはずだ。俺は周りくどい物言いは好かん」
ノルヴィスの腕が伸ばされ、とん、と指先が卓上を叩く。
レオンハルトは数秒だけ黙ると、やがて真剣な表情で口を開いた。
「貴方のやり方は間違っている」
男はそれだけを告げた。低く、静かで、はっきりとした物言いだった。
ノルヴィスが少しだけ顔を伏せる。薄着に覆われた肩が微かに揺れ、先程よりもはっきりとした笑い声が漏れ聞こえてきた。
アリーシャはちらとレオンハルトの顔を見る。男の視線はこちらに向けられることはなく、笑うノルヴィスをただじっと見据えていた。
ざあ、と強い風が吹き抜ける。冷えた風は湿り気を帯びている。きっと今夜は天気が荒れることだろう。
片手で風から目を守っている様子のレオンハルトとは対照的に、ノルヴィスはまるで突風に持ち上げられるかのように音もなくその場に立ち上がる。すっかり伸びた黒い前髪の間から、赤い瞳がレオンハルトを見下ろす。
「今更道を変える気はない」
低い声でそれだけを言い放ち、ノルヴィスはレオンハルトに背を向けた。主人を室内へと送り届けるため、アリーシャが男のそばへと立ち、背後のレオンハルトには分からない程度に身体を支える。
ガタンと椅子が倒れる大きな音がした。振り返ろうとしないノルヴィスの代わりに、アリーシャが肩越しに男を見る。午後の日差しを受けて青い双眸は強い光を放っているようにも見えた。
「ノルヴィス殿下! それでも……それでも私は、貴方の治世をこの剣でお支えしたかった! 心よりそう思っていたのです……!」
振り絞るような低い声でレオンハルトが叫ぶ。アリーシャは男から視線を切ると、寄り添う主人の顔を見上げた。ノルヴィスの目は変わらず真っ直ぐに屋敷の方へと向けられたままだった。
「俺には最初からそのような資格がない。ニコラを死なせるなよ」
最後にそれだけを告げて、ノルヴィスはアリーシャと共に屋敷の中へと戻って行った。
◇
ノルヴィスを自室へと送り届け、世話をする使用人を一人呼びつけてから、アリーシャは屋敷の門へと向かった。そこに立つ男に一礼し、大通りの方へと歩みを促す。
木陰を四つ抜けたところで、レオンハルトがようやく口を開いた。
「瘴気の件と合わせて調べたんだ。数年前より不可解な罪状で除爵され、城を追われた者たち。彼らは皆、ノルヴィス殿下を支持する者たちだった」
アリーシャは歩きながら隣の男の顔を見上げる。レオンハルトの視線は真っ直ぐに王城の方角へと向けられていた。
また視線を前方へと戻し、アリーシャは淡々と付け加えるように告げる。
「以前に団長が気にされていたノルヴィス様の剣。それを殿下に教え伝えたのは、団長の前の前に騎士団長を務めていた方です」
「その方は、今は」
「私がお屋敷に来るより以前に亡くなられています」
以前にノルヴィスから一度だけ聞いたことがあるその男について、アリーシャは王城に残された僅かな資料から顛末を調べ上げていた。
かつてノルヴィスは、母親である前王妃を国庫の使い込みで糾弾し、王城から追放して国へと送り返していた。そのことで一層王との対立を深めたノルヴィスだったが、当時は少なからず彼の肩を持つ者もおり、そして件の男も剣術指南役としてノルヴィスの側についた。
「――王の怒りを買い、危ない地ばかりに追いやられ、やがて瘴気の病に倒れてもなお、彼はノルヴィス様に言い続けたそうです」
「……なんと?」
「『正しき王族たれ』と」
そう答えてアリーシャは足を止めた。レオンハルトも同様にその場に立ち止まる。
アリーシャはレオンハルトの顔を見上げた。光を透く美しい金の髪。それと同じ色を持つこの国の第三王子にまで、その呪いは伝播している。
あの狩りの日にニコラに告げられた言葉を、アリーシャは一言一句違えずになぞった。
「王族に生まれたからには、己の命、爪の一片に至るまで民のためにあると思え。もはや呪詛です。腹心を投獄され、食事に盛られた毒で侍女を失い、周囲の者を危険に晒さぬよう辺鄙な地に移り住んで、それでもまだ立ち止まることができないのです」
レオンハルトの目を見ながらアリーシャが告げた。
それでも、と男が首を横に振る。
「そうだったとしても、殿下と君のやり方は正しくない。民の困窮が解消されない限り租税を不当に取り上げる商人はなくならない。奴隷商を何人殺めたところで、法が奴隷制を禁じない限りは何も解決しない」
「そのようなこと、ノルヴィス様も最初から全て理解していますよ。分かっていて、それでも手放せないお方なのです」
アリーシャが静かに返答する。
日が傾いてきた。道に落ちる木の影が一層伸び、まるで細い手のように屋敷の方へと迫る。
そろそろ戻らなければならない。アリーシャがそう告げると、レオンハルトは無言でこちらへと手を突き出した。
目を突かれるかと思った指は、その少し下をそっとなぞった。硬い感触が薄い皮膚に触れる。
「君は、どう思うんだ」
その漠然とした問いに、アリーシャはくすりと笑ってみせた。
「何も。ただ、あの方のお側にいたいと。それだけです」
レオンハルトの表情が微かに歪んだように見えた。離れようとした男の手をアリーシャが素早く掴む。分厚い皮膚。硬い剣だこ。骨ばった指の関節。それらを指先でしっかりと感じ取り、アリーシャはレオンハルトの手をそっと離した。
くるりと身を翻し、男に背を向ける。二歩進み、木陰の下へと入ってから、アリーシャは振り返らないままで告げた。
「貴方のような方にこそ、ノルヴィス様のお味方になって欲しかった」
返答を待たずに、アリーシャは真っ直ぐに屋敷への道を引き戻る。背後からは聞き慣れた足音がすることはなかった。
◇
厨房を覗き、夕食の支度が進んでいることを確かめる。鍋の中身を一掬いして、さらにいくつかの調味料を加えた。
階段を登ってノルヴィスの部屋へと辿り着く。軽く叩くと、開かれた隙間から使用人の男が顔を出した。彼と入れ替わりに、アリーシャは薄暗くなってきた部屋へと身を滑り込ませた。
執務机の上には、山のような本が積み上げられている。その向こう側にある黒髪を見ると、アリーシャはこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「そろそろ中断して休めと、ここを任せた者にそう言われませんでしたか?」
「俺が使用人の小言を聞くと思うか?」
「彼はこの屋敷で最も体術に優れます。或いは、と思ったのですが」
「そう簡単に主人に手を上げる不届者はお前ぐらいなものだ」
数言やり取りする間に、アリーシャの足はノルヴィスのもとへと辿り着いた。男が次に手にしようとした本を奪い去る。抗議するような視線がこちらを見上げた。
「何をする」
「お食事です。お召し物をお変えください」
袖についたインクを指し示しながらアリーシャが告げた。
ノルヴィスは面倒そうな顔でゆっくりと椅子から立ち上がる。
そのまま腕を上げた男の上半身から、アリーシャが衣を取り去った。晒された肌を新しい衣服で覆い隠そうとした時、不意に掴まれた腕が強く引かれた。
「っ……ノルヴィス様。お怪我をされたらどうします」
アリーシャが苦言を呈する。体勢を崩して倒れ込んだ身体は、再び椅子に座ったノルヴィスに乗り上げるような形となっていた。倒れた拍子に角が喉を突きでもしていないかと思ったが、咄嗟に首を捻ったことが功を奏したらしい。
すぐにノルヴィスの上から降りようとしたが、背に回された腕によってその動きは阻害された。アリーシャが男の顔を見ようと首を上に向ける。入れ違いのようにノルヴィスの顔が伏せられ、耳に唇が当たる感触があった。
「或いはこのまま帰らないかと思ったがな」
「ご冗談を。まだ首にはなっておりません」
薄く口角を上げて笑っているノルヴィスへ、アリーシャはぴしゃりとそう返した。
室内が一層暗くなってくる。遠く雷が鳴る音が聞こえた。そろそろ本を読める明るさではないだろうとアリーシャが問うと、怪我をした片目が眩しいのだとノルヴィスは答えた。
「後遺症を残すとは、腕の悪い医者ですね」
「だからと言って呪い殺すなよ」
「私を一体何だとお思いですか」
なるべく体重をかけないように少し身体を上に伸ばして、アリーシャは男の頬に口付ける。ようやく解放された身体をするりと滑り落とすと、床へと降り立ち手を差し出した。
軽く手を引いて主君の身体を椅子から引き剥がしてから、アリーシャは着替えの続きを促した。




