第9話 忘れられた布
三つ目の花弁が光り、白い獣・シロは街の北へ走り出しました。
しかし、その途中でカインとリコが出会ったのは、一枚の古びた布を大切そうに抱える、小さな少女でした。
壊れたものを「直す」とは、すべてを綺麗にすることなのでしょうか。
「待って、シロ!」
リコの声が石畳に響く。
白い獣は、二人の少し先を走っていた。
今ではカインにも、その姿がはっきり見える。
雪のような白い毛。
長い耳。
小さな体。
「キュウ」
ときどき振り返っては、二人がついてきていることを確認するように鳴く。
「……完全に案内してるな」
「資料館までかな?」
「たぶんな」
北門へ続く道は、市場の賑わいから少し離れていた。
古い住宅が並び、道幅も狭い。
その途中。
突然、シロが足を止めた。
「キュウ」
「どうしたの?」
リコも立ち止まる。
シロが見ている先。
路地の隅に、小さな少女が座り込んでいた。
頭には獣のような耳。
茶色がかった髪。
年齢は十歳にも届かないだろう。
膝の上に、一枚の布を抱えている。
「……獣人か」
カインが呟く。
エルディアでは珍しくない。
交易の街だった名残で、さまざまな種族が暮らしている。
少女は布を見つめたまま動かない。
リコが近づく。
「どうしたの?」
少女が顔を上げた。
目が赤い。
泣いていたらしい。
「……破れちゃった」
「それ?」
少女が頷く。
抱えているのは、小さな毛布だった。
いや。
毛布だったもの、と言った方が近い。
あちこちが擦り切れ、
何度も継ぎ当てされ、
端はほつれている。
赤。
青。
黄色。
違う布で補修された跡がいくつもあった。
中央には大きな穴まで開いている。
「新しいのを買えばいい」
カインが言った。
少女の顔が強張る。
リコが振り返る。
「カイン」
「事実だろ」
これだけ傷んでいれば、新しく作る方が早い。
修復師として見ても、その判断は合理的だった。
だが。
少女は毛布を強く抱きしめた。
「だめ」
「どうして」
「これじゃないと、だめ」
カインが黙る。
リコが少女の隣にしゃがんだ。
「大切なものなの?」
少女は小さく頷く。
「おばあちゃんが作ってくれたの」
カインの視線が、毛布へ戻る。
「おばあちゃんは?」
少女は答えなかった。
その表情だけで十分だった。
リコも何も聞かなかった。
「名前は?」
「……トト」
「私はリコ」
リコは微笑む。
「こっちはカイン」
「勝手に紹介するな」
「修理屋さんなの」
トトの耳がぴくりと動いた。
「直せる?」
カインは毛布を見る。
簡単ではない。
布そのものが弱っている。
普通に直そうとすれば、大部分を新しい布へ交換することになる。
「店に持ってこい」
「ほんと?」
「見るだけだ」
それでもトトの顔が明るくなった。
◇
店へ戻ると。
カインは毛布を作業台へ広げた。
「……ひどいな」
「カイン」
「状態の話だ」
穴。
汚れ。
ほつれ。
色褪せ。
そして。
何度も縫い直された跡。
「これ、全部おばあちゃんが?」
リコが尋ねる。
トトは首を振った。
「最初は、おばあちゃん」
赤い継ぎ当てを指さす。
「ここは、お母さん」
次に青い布。
「ここは、お父さん」
黄色い糸。
「これは、わたし」
不器用な縫い目だった。
リコが微笑む。
「上手」
「ほんと?」
「うん」
カインは何も言わず、毛布を見ていた。
一枚の布。
だが。
そこには何年もの時間が積み重なっている。
誰かが破った。
誰かが直した。
また破れた。
また誰かが直した。
そうして残ってきた。
カインは右手の手袋を外した。
「触るぞ」
トトが不安そうに見る。
「壊さない?」
「壊すために触るんじゃない」
指先が布へ触れる。
瞬間。
記憶が流れ込んできた。
◇
赤ん坊。
この毛布に包まれている。
誰かの腕。
優しい歌。
場面が変わる。
幼いトトが転んで泣いている。
祖母が毛布をかける。
『大丈夫、大丈夫』
また変わる。
家族で食卓を囲んでいる。
冬の夜。
トトは毛布にくるまりながら眠っている。
母親が笑う。
父親がそっと抱き上げる。
そして。
最後。
年老いた女性が、毛布を縫っている。
震える手。
針を通す。
赤い布を当てる。
『物はね』
祖母の声。
『古くなったからって、終わりじゃないんだよ』
針が動く。
『直した跡も、その子が生きてきた時間だからね』
◇
カインは静かに手を離した。
頭痛はない。
ただ。
胸の奥が少し重かった。
「どうだった?」
リコが聞く。
カインは答えず、毛布を見る。
もし新品の布に張り替えれば。
丈夫になる。
綺麗にもなる。
だが。
赤い布も。
青い布も。
黄色い糸も。
全部消える。
「トト」
「なに?」
「綺麗にしたいか」
少女は少し考えた。
「……直したい」
「綺麗じゃなくて?」
「うん」
「汚れも残るぞ」
「いい」
「継ぎ当ても」
「残して」
「穴だけ塞ぐ?」
トトは力強く頷いた。
「うん」
カインは道具を取り出した。
新しい布を一枚。
だが。
元の毛布と同じ色にはしなかった。
少し違う色。
直した場所が、はっきり分かる色。
リコが気づく。
「隠さないんだ」
「ああ」
針を通す。
一針。
また一針。
古い布を傷めないように。
時間をかけて。
ゆっくりと。
「昔の俺なら」
カインが呟く。
「全部取り替えてた」
リコは何も言わず聞いている。
「汚れを落として」
針を通す。
「ほつれを消して」
また一針。
「古い継ぎ当ても外して」
そして。
「新品みたいにしてた」
トトが不安そうに聞く。
「それ、しない?」
「ああ」
カインは答えた。
「しない」
しばらくして。
修復が終わった。
毛布は綺麗ではなかった。
古い。
色褪せている。
継ぎ当てもたくさんある。
だが。
大きな穴は塞がっていた。
これなら、まだ使える。
「できたぞ」
トトは毛布を受け取った。
ぎゅっと抱きしめる。
そして。
笑った。
「おばあちゃんの毛布だ」
その言葉に。
カインの手が止まった。
「……そうだな」
ただの綺麗な布ではない。
トトの毛布だ。
◇
トトが帰ったあと。
リコは作業台に残った糸くずを片づけていた。
「カイン」
「なんだ」
「今日の修理、好き」
「修理に好き嫌いがあるのか」
「あるよ」
「変な奴だな」
リコは笑う。
「傷を消さなかったから」
カインは黙った。
「傷も」
リコは続ける。
「汚れも」
「……」
「直した跡も」
そして。
「全部、その人の記憶なんだね」
カインは答えなかった。
だが。
否定もしなかった。
そのとき。
「キュウ」
シロが作業台へ飛び乗った。
今度は最初から、カインにも見えている。
「お前、資料館へ案内するんじゃなかったのか」
「キュウ」
当然のような顔をしている。
リコが笑った。
「先にトトを見つけたかったのかも」
「どうして」
「必要だったから」
「何が」
リコは毛布の切れ端を見る。
「カインが、この修理をすることが」
その瞬間。
金属板が淡く光った。
カインが振り向く。
七枚の花弁。
すでに三枚が光っている。
だが。
今回は、新しい花弁は光らなかった。
代わりに。
三枚の光が、
以前より強く輝いた。
「……これは記憶の一つじゃない?」
リコが尋ねる。
「ああ」
カインは金属板を見つめる。
「たぶん違う」
「じゃあ、何だったんだろう」
カインは少し考えた。
そして。
「……分からない」
リコが笑う。
「カインも言うんだ」
「うるさい」
シロが、
「キュウ」
と鳴いた。
まるで笑ったように聞こえた。
そして今度こそ。
白い獣は店の扉へ向かう。
振り返る。
「……行けってことか」
リコが立ち上がる。
「資料館」
カインも上着を取った。
北門の外。
忘れられた街の記録が眠るという、
古い資料館。
三つの花弁が示した記憶の先へ。
二人は再び歩き始めた。




