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第8話 エリシア

古道具の露店で見つけた、一冊の古びた本。


そこに描かれていたのは、リコによく似た少女でした。


そして、その下に記されていた名前――「エリシア」。


失われた記憶が、少しずつ動き始めます。

「……エリシア」


その名前を口にした瞬間。


リコの頬を、一筋の涙が伝った。


本人はそれに気づいていないようだった。


「リコ」


カインが呼ぶ。


返事はない。


彼女の視線は、古びた本のページに釘付けになっている。


そこに描かれているのは、一人の少女。


淡い髪。


細い輪郭。


そして胸元には、七枚の花弁。


今のリコと、よく似ている。


いや。


似ている、という言葉では足りない。


まるで――


同じ人物を描いたように見えた。


「リコ」


もう一度呼ぶ。


今度は肩が小さく震えた。


「……なに」


「大丈夫か」


「わからない」


「頭は痛む?」


「少し」


「なら、離れろ」


「でも」


「無理するな」


カインは本を閉じようと手を伸ばした。


その瞬間。


ぱらり。


本のページが、ひとりでにめくれた。


「……またか」


次のページ。


そこには、古い街並みの絵が描かれている。


白い石造りの建物。


高い塔。


広い道。


噴水。


そして街の中央に立つ、大きな樹。


リコが息を呑んだ。


「……ここ」


「知ってるのか」


「見たことある」


「どこだ」


「わからない」


「夢か?」


「違う」


リコは首を振る。


「知ってる」


その声には確信があった。


「この道も」


ページを指さす。


「この塔も」


さらに指先を動かす。


「この木も」


「名前は?」


「……」


「街の名前だ」


リコは目を閉じた。


必死に何かを探している。


「エ……」


唇が動く。


「エル……」


カインは待った。


「エリ……」


だが。


そこで途切れた。


リコが頭を抱える。


「だめ」


「もういい」


「あと少しなのに」


「無理に思い出す必要はない」


「でも」


「壊れるぞ」


その言葉に、リコが顔を上げた。


「……私が?」


カインは一瞬黙った。


「記憶は物と同じじゃない」


「でも、壊れることはあるんでしょ」


「……ある」


「じゃあ」


リコは小さく笑った。


「カインが直してくれる?」


「人は直せないと言っただろ」


「じゃあ、手伝って」


「何を」


「私が自分で直すのを」


カインは言葉を失った。


リコは本へ視線を戻す。


「私、自分が誰なのか知りたい」


「……」


「エリシアが誰なのかも」


「それが、お前だとは限らない」


「うん」


「似ているだけかもしれない」


「うん」


「危険かもしれない」


「それでも」


リコはまっすぐ彼を見る。


「知りたい」


その目に迷いはなかった。


カインは小さく息を吐いた。


「……勝手にしろ」


「手伝ってくれる?」


「放っておいたら、一人で突っ込むだろ」


「たぶん」


「なら見張る」


リコが少し笑う。


「ありがとう」


「礼を言うな。面倒が増えただけだ」


それでも。


リコの表情が少し明るくなるのを見て、


カインはそれ以上何も言わなかった。


◇


「それ、買うのかい?」


露店の主人が声をかけてきた。


年老いた男だった。


灰色の髭。


深い皺。


片目に古い眼鏡をかけている。


カインは本を持ち上げる。


「どこで手に入れた」


「それか」


老人は少し考える。


「ずいぶん前だな」


「誰から」


「旅商人だったと思うがね」


「名前は」


「覚えてない」


カインは眉を寄せる。


「いつ頃だ」


「十年……いや、もっと前か」


リコが老人を見る。


「この絵の街、知ってますか」


「どれ」


老人が本を覗き込む。


「……ほう」


表情が変わった。


「何か知ってるのか」


カインが聞く。


老人はゆっくり眼鏡を直した。


「似た話なら聞いたことがある」


「話?」


「消えた街だよ」


リコの顔がこわばる。


「消えた……?」


「昔、この辺りよりずっと北に、美しい白い街があったそうだ」


「名前は」


「さあな」


老人は首を振る。


「古い話だ。記録にもほとんど残っちゃいない」


カインが本を開き、七枚の花弁を見せる。


「この紋様は」


老人の表情がさらに険しくなった。


「……どこでそれを」


「知っているのか」


「昔、祖父から聞いた」


老人は声を落とした。


「その花は、忘れられた者たちの印だと」


「忘れられた者?」


「詳しくは知らん」


「何でもいい。聞いたことを話せ」


老人は少し迷った。


やがて。


「七つの花弁には、それぞれ記憶が宿る」


リコが息を止める。


カインも黙った。


「七つがそろうと」


老人は続ける。


「消されたものが、もう一度この世に現れる」


「消されたもの?」


「街か」


「人か」


「それとも」


老人は本を見つめた。


「記憶そのものか」


沈黙が落ちた。


「……作り話じゃないのか」


カインが言う。


「かもしれん」


老人は肩をすくめる。


「昔話なんて、そんなものだ」


「その話をした祖父は」


「もうずいぶん前に死んだ」


「他に知っている人は」


老人は少し考えた。


「北門の外に、古い資料館がある」


「資料館?」


「もうほとんど使われていないがね」


「そこに何かあるのか」


「古い街道や、消えた集落の記録が残っているかもしれん」


カインは本を閉じた。


「いくらだ」


「本か?」


「ああ」


老人はリコを見る。


そして。


なぜか少しだけ、寂しそうな顔をした。


「持っていきな」


「ただで?」


「どうせ誰も読めん本だ」


「だが」


「必要な人のところに行くのが、古道具ってもんだろう」


その言葉に。


カインは一瞬黙った。


エルディアらしい言い方だった。


「……借りにしておく」


「好きにしな」


老人は笑った。


◇


店へ戻る途中。


リコはずっと本を抱えていた。


「エリシア」


何度か、その名前を口にする。


「何か思い出したか」


「まだ」


「なら考えすぎるな」


「でもね」


「なんだ」


「この名前を言うと」


リコは胸に手を当てた。


「少しだけ、苦しい」


「痛むのか」


「違う」


「じゃあ?」


「懐かしい」


カインは黙る。


リコは空を見上げた。


「変だよね」


「何が」


「知らない名前なのに」


風が吹いた。


市場の音が遠ざかっていく。


「自分の名前みたいに感じる」


その瞬間。


リコの腕の中で。


古びた本が、淡く光った。


同時に。


カインが持っていた金属板も反応する。


七枚の花弁。


一枚目。


二枚目。


そして。


三枚目が――


ゆっくりと光り始めた。


「……三つ目」


リコが呟く。


だが。


カインは花弁ではなく、


本の表紙を見ていた。


そこに、


さっきまではなかった文字が浮かび上がっている。


古い文字。


リコがそれを読む。


「……記憶は、名前から始まる」


その直後。


どこからともなく。


あの小さな鳴き声が聞こえた。


「キュウ」


リコが振り向く。


路地の奥。


白い獣――シロが立っていた。


今度は。


カインにも、はっきり見えていた。


シロは二人を見つめると、


くるりと背を向ける。


そして。


街の北へ向かって走り出した。


リコが叫ぶ。


「カイン!」


「ああ」


その先にあるのは。


老人が話した、


古い資料館だった。

挿絵(By みてみん)

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