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第10話 ガリバーの哲学

トトの毛布を修復したあと、白い獣・シロに導かれ、カインとリコは北門の外へ向かいます。


そこにあるのは、長いあいだ忘れられていた古い資料館。


そして二人はそこで、奇妙な老人と出会うことになります。

エルディアの北門を抜けると、街の空気が少し変わった。


石畳は途切れ、代わりに草の生えた古い道が続いている。


かつては多くの荷馬車が通ったのだろう。


だが今では、轍の跡さえ薄れていた。


「こっちで合ってるの?」


リコが尋ねる。


「老人の話ではな」


カインは前を見る。


少し先を、シロが走っている。


「キュウ」


白い獣は何度か振り返りながら、二人を先へ促していた。


「シロも行けって言ってる」


「いつからそいつの言うことを信用するようになった」


「だって、今まで間違ってないよ」


「……それが気に入らない」


リコが笑った。


しばらく歩くと。


林の向こうに、古い建物が見えてきた。


石造りの二階建て。


蔦が壁の半分を覆っている。


入口の上には、かろうじて文字の残った看板。


『エルディア旧街道資料館』


「ここだ」


カインが言った。


「……開いてるのかな」


「見れば分かる」


扉へ近づく。


古い木製の扉。


ノブには錆が浮いている。


カインが手をかけると。


ぎい。


あっさり開いた。


「鍵、かかってない」


「盗む価値のある物もないんだろ」


「ひどい」


中は薄暗かった。


埃の匂い。


古い紙。


乾いた木。


窓から差し込む光の中を、細かな埃が漂っている。


壁には古い地図。


棚には大量の書類。


壊れかけた模型。


使われなくなった測量器具。


そして。


「勝手に入るとは、感心せんな」


突然。


奥から声がした。


リコがびくりとする。


カインは反射的に身構えた。


本棚の陰から。


一人の老人が現れた。


背が高い。


痩せている。


真っ白な髪と髭。


片手には杖。


もう片方には分厚い本を抱えていた。


「開いていた」


カインが言う。


老人は鼻を鳴らした。


「扉が開いていることと、入っていいことは別の話だ」


「なら鍵をかけろ」


「鍵をかければ、来るべき者まで入れん」


「どっちなんだ」


老人は答えず。


カインの隣にいるリコを見た。


その瞬間。


老人の目が細くなる。


「……ほう」


リコが少しカインの後ろへ下がった。


「何ですか」


「いや」


老人はリコをじっと見る。


「面白いものを連れてきたと思ってな」


「ものじゃないです」


リコがむっとする。


老人は笑った。


「それは失礼」


カインが一歩前に出る。


「この資料館の管理人か」


「一応な」


「名前は」


老人は杖を床へついた。


「ガリバー」


「ガリバー?」


「そうだ」


「姓は」


「忘れた」


カインが眉をひそめる。


「自分の姓を?」


「必要がないから忘れた」


リコが首をかしげた。


「そんなことあるんですか?」


「人間は必要のないものから忘れていく」


ガリバーは平然と言った。


「名前も」


「顔も」


「約束も」


「街もな」


最後の言葉に。


カインとリコの表情が変わった。


ガリバーは、それを見逃さなかった。


「どうやら、ただ古い資料を見に来たわけではなさそうだ」


カインは懐から古びた本を取り出した。


市場の露店で見つけた本。


七枚の花弁が刻まれている。


ガリバーの目が止まった。


「……どこで、それを」


「知っているのか」


「質問しているのは私だ」


「なら答える気はない」


二人はしばらく睨み合った。


リコが小さくため息をつく。


「二人とも、話進まないよ」


沈黙。


ガリバーが先に笑った。


「なるほど」


「何がおかしい」


「お前さん、昔からそういう顔をしていたのか?」


「会ったことがあるのか」


「ない」


「なら黙れ」


「やはり面白い」


ガリバーは近くの机へ本を置いた。


「座れ」


「話す気になったのか」


「立ち話では腰が痛い」


「それだけか」


「老人には重要な問題だ」


リコが先に椅子へ座った。


「カインも座ろう」


「……」


仕方なく、カインも座る。


ガリバーは向かい側へ腰を下ろした。


「さて」


老人の目が、古い本へ向く。


「お前さんたちは、何を知りたい」


カインが答える。


「この紋様」


七枚の花弁を指さす。


「それと」


リコを見る。


「エリシアという名前」


ガリバーの表情から。


笑みが消えた。


「……その名を」


老人の声が低くなる。


「どこで知った」


「この本に書かれていた」


リコが言う。


「私に似た女の子の絵の下に」


「お前が読んだのか」


「はい」


「文字を?」


「読めました」


ガリバーはしばらく黙っていた。


そして。


「そうか」


とだけ言った。


「何か知ってるんですか?」


リコが尋ねる。


「知っていると言えば知っている」


「知らないと言えば知らない」


カインが顔をしかめる。


「はっきりしろ」


ガリバーは杖の先で床を軽く叩いた。


「若いな」


「何がだ」


「知っているか、知らないか」


「正しいか、間違っているか」


「あるか、ないか」


「お前さんは、何でも二つに分けたがる」


「質問に答えろ」


「それが答えだ」


「……帰るぞ、リコ」


カインが立ち上がろうとする。


「待て」


ガリバーの声が変わった。


カインが止まる。


老人は本棚の奥を見る。


「エリシアという名は」


ゆっくり。


言葉を選ぶように続ける。


「この国の正式な記録には存在しない」


リコの顔が強張った。


「……存在しない?」


「ああ」


「じゃあ、この本は?」


「だから面白い」


ガリバーが言う。


「記録にないものが」


「記憶には残っている」


カインの目が細くなる。


「どういう意味だ」


老人は立ち上がった。


「ついてこい」


資料館の奥へ進んでいく。


棚と棚の間。


さらに奥。


ほとんど使われていない部屋。


壁一面に古い地図が貼られている。


ガリバーはその中の一枚を指さした。


「これは、およそ百年前の街道図だ」


カインとリコが近づく。


エルディア。


王都。


周辺の村。


古い街道。


だが。


北側の一部だけ、


不自然な空白がある。


「何もない」


リコが呟く。


「ああ」


ガリバーは頷く。


「今の地図も同じだ」


別の地図を見せる。


やはり空白。


「森しかないことになっている」


「実際は?」


カインが尋ねる。


ガリバーは答えず。


さらに古い地図を取り出した。


紙は黄色く変色している。


端もぼろぼろだ。


「これは百五十年以上前のものだ」


広げる。


リコが息を呑んだ。


空白だった場所に。


街が描かれている。


白い街。


中央には、大きな樹。


そして。


その横に。


七枚の花弁。


「……ここ」


リコの手が震えた。


「本の絵と同じ」


カインも気づいた。


市場で見つけた本。


そこに描かれていた街と。


ほとんど同じだった。


「街の名前は」


カインが地図を見る。


だが。


名前が記されているはずの場所だけ、


墨で塗り潰されていた。


「消されてる」


リコが言った。


「ああ」


ガリバーが静かに答える。


「誰かが消した」


「いつ」


「分からん」


「誰が」


「分からん」


「なぜ」


ガリバーは少し笑った。


「それを調べ続けて、私は老人になった」


リコは地図から目を離せない。


「この街に……エリシアがいたんですか?」


ガリバーはすぐには答えなかった。


「私は」


老人は言う。


「記録より、傷を信用している」


「傷?」


リコが振り向く。


「記録は書き換えられる」


「名前は消せる」


「地図から街を消すこともできる」


ガリバーは地図の黒く塗りつぶされた場所を指す。


「だが」


「消した跡までは、完全には消せん」


カインの胸に。


どこか聞き覚えのある感覚が響いた。


傷を消さない。


直した跡を残す。


トトの毛布。


ひび割れた手鏡。


すべてが。


ここへつながっているような気がした。


ガリバーがカインを見る。


「修復師」


「なぜ俺の仕事を」


「手を見れば分かる」


老人は笑った。


「お前さんなら分かるだろう」


「新品のように戻すことだけが、修復ではない」


カインは黙る。


「消されなかった傷にこそ」


ガリバーは言った。


「本当の姿が残ることもある」


その瞬間。


リコの持っていた古い本が震えた。


ぱらぱらと。


勝手にページが開いていく。


一枚のページで止まる。


そこには。


白い街。


中央の大樹。


そして。


大勢の人々に囲まれた少女。


リコと同じ顔。


エリシア。


その背後に。


大きな炎が描かれていた。


リコの顔から、


血の気が引いた。


「……この景色」


「どうした」


カインが問う。


リコは震える指で絵を指した。


「私……」


息を呑む。


「ここにいた」


その瞬間。


資料館の窓が、


激しく震えた。

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