第11話 刻まれた時間を残す修復
傷を消すことが、本当に「直す」ということなのか。
今回は、カインが修復師として大きく考え方を変えるきっかけになる話です。
カインは、その言葉を胸に刻み込んだ。
決めるのは、修復師の美学ではない。
持ち主――依頼人自身の心だ。
何を残したいのか。
何なら替えていいのか。
何だけは失いたくないのか。
それを確かめたうえで、使い続けられる形へ直す。
それが修復師の仕事なのだ。
「……始めるぞ」
◇
作業は昼過ぎまで続いた。
ガリバーは帰ろうとしなかった。
作業場の隅の椅子にどっかりと腰掛け、腕を組んだまま、カインの手元を鋭い目で監視している。
ものすごくやりにくい。
「……帰らないのか」
「見届けると言ったろうが」
「邪魔だ」
「気にするな」
「気になる」
「集中力が足りんのだ」
「黙って見ていろ」
そのやり取りを、リコが楽しそうに眺めていた。
「二人、仲良しだね」
「「違う」」
綺麗に重なった声に、リコは吹き出した。
カインはため息をつき、再び作業へ戻る。
椅子の脚の割れ目を慎重に開き、古い接着剤を掻き出した。
「……原因は、単なる乾燥じゃないな」
ガリバーが頷く。
「一度、激しく倒れた」
「いつだ」
「十五年前だ」
「なぜ、その時に直さなかった」
「応急処置だけして誤魔化した」
カインは呆れた顔を向ける。
「家具職人のくせに?」
「当時は忙しかったんだよ」
「ただの言い訳だな」
「若造に言われたくないわ」
皮肉を交わしながらも、作業は着々と進んでいった。
やがて。
ガリバーが、ぽつりと言った。
「……俺も昔は、お前と同じだった」
カインの手が止まる。
「何がだ」
「見た目を綺麗に直すことこそが、最高の仕事だと思っていた」
ガリバーは、自分の太く傷だらけの手を見つめた。
長年、木と向き合ってきた男の手だった。
「新しい方がいい。傷は消した方がいい。古びた汚れは削り落とすべきだ。……そう信じて疑わなかった」
「それの何が悪い。修復として間違いではない」
「悪くないさ。そういう仕事が必要な時もある」
ガリバーの目が、修復中の椅子へ向く。
「だがな……一度だけ、妻の椅子を直したことがあった」
カインは黙って作業を続けた。
「病気で逝った後だ。何か手仕事をしていないと、気が狂いそうだったからな」
妻が毎日座っていた椅子。
肘掛け。
背もたれ。
座面。
「俺は完璧に直した」
ガリバーは淡々と言った。
「小さな欠けも、染みも、傷も、擦れも……全部綺麗に削り落とした。布も新品に張り替え、木肌を磨いた。新品みたいになったよ」
一瞬だけ、昔を思い出すように笑う。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……完成して、初めて気づいた」
「何にだ」
「あいつが座っていた形跡が、何一つなくなっていた」
カインの手が止まった。
「椅子は残った。だが、あいつがそこに生きていた証が消えていたんだ」
ガリバーの声が低くなる。
「肘掛けの塗装が薄くなっていた場所も、髪油がついた背もたれも、編み物の針を落としてできた小さな穴も……全部、俺の手で消した」
その手が、かすかに震えていた。
「……俺が消したんだ」
カインの脳裏に、王都での記憶が蘇った。
依頼人の宝石箱。
消してしまった、小さな傷。
――これはもう、私の宝石箱ではない。
あの時の依頼人の顔。
悲しみ。
失望。
自分も、同じことをしていた。
「それからだ」
ガリバーがカインを真っ直ぐに見た。
「壊れた箇所だけを見るのをやめたのはな」
「……」
「修復ってのは、過去を綺麗に消し去ることじゃない」
店の外を風が吹き抜ける。
古い吊り看板が、ぎい、と小さく鳴った。
ガリバーは静かに続けた。
「刻まれた時間を残したまま……未来へ渡すことだ」
カインは何も言えなかった。
その言葉は、どんな刃物より深く胸へ刺さった。
◇
夕暮れ。
椅子の修復が終わった。
割れていた脚は内側から補強し、緩んでいた背もたれも締め直した。
座面の布は新しいものへ張り替えてある。
だが。
肘掛けに残っていた傷だけは、そのままだ。
五歳のロイが刻んだ、文字になりきれなかった傷。
ガリバーが椅子へ腰を下ろした。
ギィ……。
小さく木が鳴ったが、以前のようなぐらつきはない。
「どうだ」
ガリバーは左右に体重をかけ、深く背もたれへ身を預けた。
「……悪くない」
「悪くない、か」
「百点満点ではないな」
「代金はいらん。とっとと帰れ」
ガリバーが豪快に笑った。
「冗談だ」
そして、肘掛けをゆっくり撫でる。
「ちゃんと残っている」
カインは黙っていた。
「……いい仕事だ、カイン」
カインは背を向けたまま答えなかった。
ガリバーは椅子を肩へ担ぐ。
「で、代金はいくらだ」
「……いらんと言っている」
「なぜだ」
カインは少しだけ間を置いた。
「……授業料だ」
ガリバーが目を丸くする。
次の瞬間。
「ハハハ! 若造が!」
腹を抱えて笑い出した。
「俺に授業料を払わせるほど偉くなるには、あと百年早い!」
「だったら金を置いていけ!」
「また今度な!」
老人は愉快そうに笑いながら店を出て行った。
カラン。
扉の鈴が鳴る。
リコが、カインの顔を覗き込んだ。
「嬉しそう」
「誰がだ」
「カイン」
「見間違いだ」
「笑ってたよ」
「笑っていない」
「ちょっと口角上がってた」
「上げてない」
リコは嬉しそうに、くすくす笑った。
◇
その日の夜。
ガリバーが、再び店へやって来た。
今度は椅子を持っていない。
そして昼間とは違い、老人の顔から笑みが消えていた。
「飲みに行くぞ」
「行かない」
「来い」
「嫌だ」
ガリバーはしばらく黙った。
そして。
「……大事な話がある」
カインの表情が変わる。
ガリバーはリコへ目を向けた。
「嬢ちゃん。今夜はアンナのところへ行けるか?」
「うん」
「泊まらせてもらえ」
「何の話だ」
カインが問う。
だが老人は答えなかった。
ただ背を向ける。
「来い」
その声には、昼間までの豪快さはなかった。
カインは無言で上着を取った。
ガリバーが知っている何か。
七枚の花。
リコの過去。
そして――エルディアに隠された記憶。
その夜。
カインは初めて、この街の過去へ足を踏み入れることになる。




