第3話 影のない少女
記憶を失い、影さえ持たない少女・リコ。
突然現れた彼女を前に、カインは警戒しながらも、その正体を確かめようとします。
そしてリコに触れた瞬間、彼の《記憶視》は思いがけない反応を見せます。
「……影がない」
カインの呟きに、リコは不思議そうな顔をした。
「影?」
「ああ」
カインは床を指さす。
雷光が窓から差し込むたび、店の中の物はすべて長い影を落としていた。
作業台。
椅子。
棚。
そして、カイン自身。
だが、リコの足元だけには何もない。
少女は自分の足元を見下ろした。
「……ほんとだ」
その声には、驚きよりも戸惑いの方が強かった。
まるで、自分の体のことなのに初めて知ったような反応だった。
カインは目を細める。
「お前、自分がどうやってここへ来たのか、本当に覚えていないのか」
「うん」
「家は」
「わからない」
「家族は」
「……わからない」
「住んでいた場所は」
「わからない」
「歳は」
リコは少し考えた。
「……それも、たぶん」
「たぶん?」
「十四……か、十五くらい?」
「自分の歳まで曖昧なのか」
リコは困ったように笑った。
「ごめんなさい」
「謝るな」
カインは即座に返した。
謝られても困る。
むしろ困っているのは自分だ。
嵐の夜。
知らないオルゴール。
そこから突然現れた、記憶喪失の少女。
しかも影がない。
どう考えても普通ではない。
「……面倒だな」
思わず口から漏れた。
「面倒?」
リコが首をかしげる。
「何でもない」
カインは作業台の上のオルゴールを見る。
さっきまで光を放っていたそれは、今では何事もなかったように静まり返っていた。
巻き鍵も止まっている。
旋律も聞こえない。
まるで、最初から何も起きていなかったかのようだった。
だが。
リコだけは、確かにここにいる。
「……お前、このオルゴールを知っているか」
カインが尋ねる。
リコは作業台へ目を向けた。
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
「……」
「どうした」
「わからない」
「またそれか」
「でも……」
リコは胸元を押さえた。
「懐かしい気がする」
「懐かしい?」
「うん」
彼女はゆっくりオルゴールへ近づく。
「見たことがあるような……でも、見たことがないような」
「触るな」
カインの声が飛んだ。
リコの手が止まる。
「どうして?」
「俺が触ったとき、妙な記憶が流れ込んできた」
「記憶?」
カインは一瞬、口を閉じた。
《記憶視》のことを初対面の人間に話すつもりはなかった。
だが、この少女はすでに普通ではない。
隠しても意味がないかもしれない。
「物には、ときどき持ち主の記憶が残る」
「物に?」
「ああ」
「カインには、それが見えるの?」
名前を呼ばれ、カインは眉をひそめた。
「誰が俺の名前を教えた」
リコは目を瞬いた。
「あ……」
「俺はまだ名乗ってない」
沈黙。
リコの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「……どうして知ってるんだろう」
「それを聞いてる」
「わからない」
今度の「わからない」は、先ほどまでとは違った。
本気で怯えている。
リコは自分の頭を押さえた。
「なんで……」
「落ち着け」
「名前しか覚えてないはずなのに……」
「リコ」
「カインって……知ってる」
その言葉に、カインの胸がざわついた。
「俺に会ったことがあるのか」
「わからない」
「王都で?」
「王都……?」
「知らないのか」
リコは首を振った。
カインは黙り込む。
ますます分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
この少女は、自分と無関係ではない。
「……手を出せ」
「え?」
「いいから」
リコは戸惑いながら、右手を差し出した。
カインは自分の手袋を見る。
普段なら、人間に素手で触れることなどしない。
人の記憶まで読み取れる保証はない。
だが、長く使っていた品には、その人の感情や記憶が残る。
もしリコ自身に何かが残っているのなら。
手がかりになるかもしれない。
カインは右手の《遮断手袋》を外した。
「動くなよ」
「うん」
ゆっくりと、リコの手首へ触れる。
その瞬間。
――何も起こらなかった。
「……?」
カインは眉をひそめる。
もう一度、意識を集中する。
普段なら、わずかでも何かを感じる。
温度。
感情。
断片的な像。
だが。
何もない。
静かだった。
異様なほどに。
「どうしたの?」
リコが尋ねる。
カインは答えず、その手を握ったまま目を閉じる。
さらに深く《記憶視》を探る。
それでも。
何も見えない。
まるで――
最初から記憶というものが存在していない。
「……ありえない」
「え?」
「何もない」
「何が?」
カインはゆっくり手を離した。
「記憶だ」
リコは黙った。
「お前から、何も見えない」
「それって……」
「普通じゃない」
カインは自分でも少し言いすぎたと思った。
リコの顔に不安が浮かぶ。
「私、人間じゃないのかな」
「……そこまでは言ってない」
「でも、影もないし」
リコは俯いた。
「記憶もない」
「……」
「自分が誰なのかも分からない」
小さな声だった。
さっきまでの不思議そうな表情は消えている。
代わりにあるのは、初めて自分の異常さに気づいた少女の恐怖だった。
カインは何も言えなかった。
人を慰めるのは苦手だ。
何を言えばいいのか分からない。
長い沈黙のあと。
カインは作業台の隅にあった椅子を引いた。
「座れ」
リコが顔を上げる。
「え?」
「立ってても何も思い出さないだろ」
「……うん」
「今日は嵐だ」
窓の外では、相変わらず激しい雨が降っている。
「外へ追い出すわけにもいかない」
リコは少し目を見開いた。
「ここにいていいの?」
「今夜だけだ」
「ほんと?」
「何度も言わせるな」
ほんの少し。
リコの表情が緩んだ。
「ありがとう、カイン」
その名前を聞いた瞬間。
また胸の奥に奇妙な感覚が走る。
どうして、この少女は自分の名を知っている。
カインはオルゴールへ目を向けた。
七枚の花弁。
炎の街。
「忘れないで」と囁いた声。
そして。
記憶のない少女。
すべてが、一本の糸でつながっているような気がした。
そのとき。
リコが突然、作業台の上を見つめた。
「……ねえ」
「なんだ」
「そこにいるの、何?」
「は?」
カインが振り向く。
作業台には、オルゴールしかない。
「何もいない」
「いるよ」
リコは真剣な顔をしていた。
「白い子」
「白い……?」
「小さい獣」
カインはもう一度見る。
やはり何もいない。
だが。
次の瞬間。
オルゴールの蓋に刻まれた七枚の花弁が、
淡く光った。
そしてどこからともなく、
小さな鳴き声が聞こえた。
「……キュウ」
カインの表情が固まる。
リコだけが、
その声に向かって静かに微笑んでいた。




