第2話 鳴るはずのない旋律
七枚の花弁が刻まれた、古びたオルゴール。
その「記憶」に触れた瞬間、カインは今まで経験したことのない光景を見ることになります。
そして、鳴るはずのない旋律の先に現れたのは――。
触れてはいけない。
そう思った。
だが、修復師としての癖は、そう簡単には消えない。
カインはしばらくオルゴールを見つめたあと、ゆっくりと手を伸ばした。
蓋の中央には、七枚の花弁をかたどった紋様。
古びてはいるが、彫りは妙に鮮明だった。
「……見たことがないな」
王都の修復院にいた頃、数え切れないほどの工芸品を見てきた。
貴族の宝飾品。
古代王朝の祭具。
異国から持ち込まれた細工物。
それでも、この紋様には覚えがない。
カインは遮断手袋をしたまま、オルゴールを持ち上げた。
軽い。
内部に大きな機構が入っているようには思えない。
耳元で振ってみる。
何も鳴らない。
「壊れてる、か」
作業台へ運び、灯りを近づける。
錆びた蝶番。
ひびの入った木枠。
底面には小さな巻き鍵がついていたが、固まって動かなかった。
普通なら、ここで分解する。
構造を確認し、壊れた箇所を探す。
だが。
カインの視線は、七枚の花弁から離れなかった。
胸の奥が妙にざわつく。
理由は分からない。
ただの古道具。
そう思おうとしているのに、
何かが違う。
カインは右手の手袋を見た。
《記憶視》。
物に残された記憶を読む力。
普段なら、できるだけ使わない。
だが、持ち主も来歴も分からない品を直すには、便利な力でもあった。
「……少しだけだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
右手の手袋を外した。
冷たい空気が指先に触れる。
そして、
オルゴールへ手を伸ばした。
指先が木肌に触れた瞬間。
世界が反転した。
「――っ!」
炎。
最初に見えたのは、それだった。
真っ赤な炎が夜空を染めている。
建物が燃えている。
人が走っている。
叫び声。
泣き声。
何かが崩れ落ちる音。
煙が喉へ入り込む。
熱い。
苦しい。
これは記憶だ。
分かっている。
なのに、いつもの《記憶視》とは違った。
強すぎる。
カインは手を離そうとした。
だが、離れない。
「く……っ」
景色が次々と流れ込んでくる。
石造りの街。
逃げ惑う人々。
白い服を着た誰か。
地面に広がる黒い影。
そして――
少女。
炎の向こうに、
小さな少女が立っている。
顔は見えない。
ただ、その胸元に、
七枚の花弁の紋様が光っていた。
『――忘れないで』
声。
さっき聞こえたのと同じ声。
『お願い』
少女がこちらへ手を伸ばす。
『わたしを――』
その瞬間。
オルゴールから激しい光が溢れた。
「なっ……!」
カインはようやく手を離した。
椅子ごと後ろへ倒れ込む。
頭の奥が割れるように痛む。
「……なんだ、今の……」
こんな《記憶視》は初めてだった。
普通の物に残る記憶は、断片だ。
声。
匂い。
一瞬の情景。
だが、今のものは違う。
まるで、
自分自身がその場所にいたようだった。
カインは息を整えながら、作業台を見る。
オルゴールは静かだった。
「……」
しばらく何も起こらない。
外では嵐が続いている。
風が窓を揺らし、
雨が屋根を激しく叩いている。
やはり疲れているのか。
そう思いかけた、そのとき。
かちり。
小さな音がした。
カインの目が細くなる。
「……今のは」
かち。
かち。
固まっていたはずの巻き鍵が、
ひとりでに回り始めた。
「おい」
カインは立ち上がる。
ぎ……
ぎ……
ぎ……
錆びついた音を立てながら、
オルゴールの蓋がゆっくり開いていく。
そして。
鳴るはずのない旋律が、
静かに流れ始めた。
単純な旋律だった。
幼い子どもへ聞かせる子守歌のような、
どこか懐かしい音。
だが、カインは知らない曲だった。
「……壊れてたはずだろ」
答える者はいない。
代わりに、
オルゴールの中から青白い光が溢れ出した。
最初は淡かった。
だが、光は次第に強くなり、
狭い作業場を満たしていく。
カインは目を細めた。
その光の中で、
何かが揺れた。
人の形。
「……?」
光が収まっていく。
そこに、
少女がいた。
作業台の向こう側。
裸足で立つ、小柄な少女。
淡い色の髪が肩まで伸びている。
年齢は十代半ばほどだろうか。
古びた白い服を着ていた。
少女はぼんやりと辺りを見回した。
そして、
カインと目が合った。
「……」
「……」
しばらく、
二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのはカインだった。
「……誰だ、お前」
少女は答えない。
困ったように眉を寄せる。
「どこから入った」
少女は、ゆっくり首を振った。
「……わからない」
「は?」
「わからないの」
小さな声だった。
少女は自分の胸元を見下ろす。
「ここがどこなのかも」
それから、
カインを見る。
「あなたが誰なのかも」
「……」
嫌な予感がした。
カインは慎重に尋ねる。
「自分の名前は?」
少女は黙り込んだ。
長い沈黙。
やがて、
「……リコ」
と答えた。
「リコ?」
少女は頷く。
「たぶん」
「たぶん?」
「それだけ、覚えてる」
少女――リコは、
不安そうに自分の手を見る。
「でも、それ以外は……何も」
その足元で、
雷光が窓から差し込んだ。
一瞬だけ、
床が白く照らされる。
カインの視線が止まった。
自分の影。
作業台の影。
椅子の影。
棚の影。
すべてが床へ伸びている。
だが。
リコの足元には、
何もなかった。
「……お前」
リコが顔を上げる。
「何?」
カインは答えなかった。
もう一度、床を見る。
やはり、
ない。
この少女には、
影がなかった。




