第1話 七枚の花弁のオルゴール
壊れたものに残された「記憶」を見る修復師・カイン。
彼の静かな暮らしは、ひとつの古いオルゴールとの出会いから動き始めます。
「壊れた物に、もし記憶が残っていたら――」
そんな発想から生まれた物語です。
カインとリコ、そして不思議な古道具たちが紡ぐ物語を、楽しんでいただければ嬉しいです
王都から東へ、馬車で三日。
エルディアという街がある。
古くから交易の中継地として栄えた街だったが、王都へ向かう新しい街道が造られてから、人の流れはすっかり変わってしまった。
かつての賑わいは、もうない。
それでも、人は暮らしている。
朝になればパン屋の煙突から白い煙が上がり、魚を積んだ荷車が石畳を軋ませる。
昼には市場から威勢のいい声が響き、夕方になると港から戻った男たちが酒場へ吸い込まれていく。
そして夜。
潮風が、古い家々の間を抜けていく。
雨に削られた壁。
傾いた看板。
ひび割れた窓。
石畳の隙間を覆う苔。
王都の人間なら、きっとこう言うだろう。
――古臭い街だ、と。
だが、エルディアの人々はあまり気にしない。
壊れたら直す。
破れたら縫う。
欠けたら継ぐ。
それでも駄目なら、別の使い道を考える。
この街では、
「古い」
ということは、捨てる理由にはならなかった。
◇
そんな旧市街の外れ。
細い路地を二度曲がったところに、小さな店がある。
二階建ての古い木造家屋。
一階が店舗で、二階が住居。
軒下には、雨風ですっかり色褪せた木の看板がぶら下がっていた。
そこには、不器用な文字でこう書かれている。
『壊れたもの、何でも直します』
店の名はない。
主人の名前も書かれていない。
それでも近所の人々は、そこを「カインの店」と呼んでいた。
もっとも、その扉が開くことはあまりない。
客が来ないのではない。
正確には――
店主が、客を歓迎していないのだ。
その日の昼下がりも、そうだった。
「ごめんください」
からん、と入口の鐘が鳴る。
奥の作業場で、一人の青年が露骨に顔をしかめた。
二十代半ば。
短い黒髪に、灰色がかった瞳。
細身だが、工具を扱う腕には無駄のない筋肉がついている。
カイン・セラ。
この店の主人だ。
「……何の用だ」
「何の用って。修理屋さんでしょう?」
入ってきた中年女性が呆れた顔をする。
手には、取っ手が根元から外れた古びた鍋。
「これ、直せるかしら」
「置いていけ」
「いくら?」
「状態を見ないと分からない」
「いつできる?」
「三日」
「名前は?」
「そこの紙に」
女性はしばらく黙った。
「……あなた、本当に商売する気あるの?」
カインは答えない。
女性はため息をつき、
「まあいいわ。腕だけは確かだって、アンナさんが言ってたから」
と、紙に名前を書いた。
鍋を置き、店を出ていく。
からん。
鐘の音が消える。
静けさが戻ったところで、カインは小さく息を吐いた。
「……やっと帰ったか」
人間と話すのは疲れる。
壊れた物の方が、よほど扱いやすい。
カインは作業台の脇に置いていた薄い革手袋をはめた。
普通の革ではない。
内側に銀糸を編み込んだ、自作の手袋。
彼はそれを『遮断手袋』と呼んでいる。
完全に防げるわけではない。
だが、何もないよりはずっといい。
カインには、人に知られたくない力があった。
物に触れると、
そこに残された「記憶」が流れ込んでくる。
見るだけではない。
匂いがする。
声が聞こえる。
痛みを感じる。
持ち主が泣いていれば胸が締めつけられ、
怒っていれば、自分まで頭に血が上る。
王都では、その力を《記憶視》と呼んでいた。
かつてのカインは、この力を誇っていた。
壊れた原因が分かる。
直すべき場所が分かる。
持ち主さえ忘れた構造まで読み取れる。
王都の修復院では、
《神の手》
とまで呼ばれていた。
――あの日までは。
カインは鍋へ手を伸ばす。
だが、幸いにも強い記憶は流れ込んでこなかった。
ただの生活用品には、何も残っていないことも多い。
今のカインにとっては、その方がありがたかった。
作業台へ戻る。
真鍮の歯車。
精密ドライバー。
小さな金槌。
ピンセット。
研磨布。
大小のヤスリ。
工具だけは、いつも寸分たがわず同じ位置に並べてある。
人間は予想外の動きをする。
だが、工具は違う。
正しく扱えば、正しく働く。
壊れた物も同じだ。
原因を見つける。
分解する。
磨く。
必要なら部品を交換する。
そして、元へ戻す。
それだけでいい。
(物だけ直せばいい)
カインは何度もそう言い聞かせてきた。
(人間の事情なんて、知らなくていい)
だが、そのたびに蘇る言葉がある。
『これはもう、私の物ではありません』
カインの指が止まった。
脳裏に浮かぶのは、王都の豪華な応接室。
机の上には、細密な彫刻の施された宝石箱。
名門貴族から依頼された品だった。
カインは完璧に直した。
黒ずみを落とし、
蝶番を替え、
木肌を磨き、
小さな傷まで消し去った。
新品より美しく仕上げた。
そして《記憶視》によって知った秘密まで、依頼人へ伝えてしまった。
真実を伝えることが正しいと信じていたからだ。
だが、結果として家庭は壊れた。
しかも依頼人が何より悲しんだのは、別のことだった。
『ここに、小さな傷があったはずだ』
『すべて綺麗に修復しました』
そう答えたカインに、男は言った。
『あれは、母が残した傷だったのだ』
カインは何も言えなかった。
『技術は素晴らしい。だが――これはもう、私の宝石箱ではない』
そして最後に、
『ただの、綺麗な箱だ』
と言われた。
その日からだった。
《神の手》。
《天才修復師》。
そう呼ばれていた男が、
《心のない修復師》
と呼ばれるようになったのは。
カインは王都を離れた。
師匠にも、誰にも別れを告げなかった。
逃げるようにエルディアへ流れ着き、
古い物だけを相手にする店を始めた。
ここなら、誰も自分を知らない。
そう思っていた。
「……くだらない」
カインは記憶を振り払うように立ち上がった。
棚から乾燥させた葉を取り出し、湯を注ぐ。
苦い香りが広がった。
《記憶視》の後に飲むため、自分で調合したハーブ茶だ。
味は最悪だが、頭痛にはよく効く。
一口飲んだところで、
窓の外から低い雷鳴が響いた。
見上げれば、暗雲が街を覆いつくしている。
「……降るな」
その予想は当たった。
夕方から降り始めた雨は、夜になる頃には激しい嵐へ変わっていた。
古い窓が風で震える。
屋根を叩く雨音が店中に響く。
こんな夜に客が来るはずもない。
カインは早めに店を閉め、
後回しにしていた倉庫整理を始めた。
古時計。
割れた花瓶。
壊れたランタン。
片方しかない燭台。
誰が置いていったのか分からない木箱。
「……ゴミばかりだな」
木箱を動かした、その奥。
埃をかぶった布の下に、
小さな箱があった。
カインは布を払う。
「……オルゴール?」
古びた木製の箱だった。
表面は傷だらけ。
蝶番には赤錆が浮いている。
だが、カインの視線を奪ったのは、
傷でも、錆でもなかった。
蓋の中央。
そこに刻まれていた。
奇妙な紋様。
七枚の花弁。
「……こんな物、仕入れた覚えはないぞ」
その瞬間。
遠くで雷が鳴った。
いや。
本当に雷だったのか。
カインには一瞬、
誰かの声が聞こえたような気がした。
――わすれないで。
「……?」
店内を見回す。
誰もいない。
あるのは、雨音と、
目の前の古びたオルゴールだけ。
そしてなぜかカインは思った。
これは――
触れてはいけない物だ。
と。




