第18話 届かなかった言葉
「……読むか?」
「……読んでくれ。頼む……手が震えて、開けないんだ」
カインは慎重にピンセットで紙を取り出した。経年劣化で脆くなっている。破れないよう、ゆっくりと広げる。
掠れたインクで書かれた、短い文章。
カインは静かに読み上げた。
『エリオへ』
老人が固く目を閉じる。
『あなたが私を嫌って言った言葉じゃないことくらい、分かっています』
エリオの息が止まった。
『でも、最後まで本当のことを言ってくれなかったのは、少しだけ怒っていますよ』
リコが静かに、息を呑んで耳を傾けている。
『私は街を出ます。そして、絶対に生きてみせます。あなたがそれを望んでくれたから』
涙が、エリオの頬を伝い落ちた。
カインは最後の行を、噛み締めるように読んだ。
『あなたと過ごした時間まで、嫌いになったわけじゃないよ』
静寂が店内を包み込んだ。
エリオは両手で顔を覆った。声を出さず、ただ静かに肩を激しく揺らして泣いた。
リコも、カインも、何も言わずにただ待った。
長い、長い時間が流れた。
やがてエリオは、掠れた声で呟いた。
「……馬鹿だな、私は……」
「何がだ」
「……二十八年間……ずっと嫌われていたと思い込んで……一人で怯えていたなんて……」
カインは慰めの言葉を探したが、見つからなかった。だから、何も言わなかった。言葉など、今の彼には不要だった。
エリオは愛おしそうにペンダントを受け取った。
「磨かなくていい。この色のままでいいんだ」
「ああ」
「花も、手紙も、このままにしておいてくれ」
「分かっている」
老人は深く深々と頭を下げた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
そして店を出る直前、エリオは振り返ってカインを見た。
「修復師さん。……あなたにも、あるのではないか?」
「……何の話だ」
「開けていない、心のペンダントが」
カインは息を呑んだ。エリオは優しく微笑む。
「年寄りはね、長く生きた分だけ人の顔を見るのが上手くなるのさ。……開けないままだとね、中身を勝手に恐ろしいものだと決めつけることになる」
カラン……と鈴が鳴り、老人は去っていった。
カインはしばらく、閉ざされたドアを見つめていた。
(師匠……ルシアン……)
最後の日。自分を見つめる師匠の目。自分はすべてを投げ出し、真実を聞くことから逃げ出したのだ。
「カイン」
「……なんだ」
「師匠のこと?」
カインは驚愕して振り向いた。
「どこでその名を聞いた!?」
「カインの寝言。たまにうなされながら『ルシアン』って言ってるよ」
カインは思わず顔を覆いたくなった。
「……忘れろ」
「無理だよ。覚えてるもん」
自身の記憶を失っている少女に、己の逃げた過去を記憶されている。皮肉なものだった。
「……俺に、修復のすべてを教えてくれた人だ」
カインは初めて、自らの過去をリコに語った。
「優しい人だったの?」
「いや……厳しくて、うるさい親父だった」
「ガリバーさんみたい?」
「……似ているかもしれん」
リコがニッコリと笑う。
「じゃあ、素敵な人だね」
「どういう理屈だ」
「カイン、本当はガリバーさんのこと好きでしょ?」
「好きじゃない」
「また嘘ついてる」
カインは言い返せなかった。そして、重い口を開く。
「……死んだと聞いた」
リコの笑顔が消えた。
「俺が王都を逃げ出した後……しばらくして、死んだと聞かされた。結局、会わないままだ」
「会えなかったの……?」
「『会わなかった』んだ。少なくとも俺は、確かめに戻ろうともしなかった。……逃げたからだ」
カインは拳を固く握りしめた。
「最後に何か言おうとしていたのに……俺は聞かずに捨てた。俺が……師匠を見捨てたんだ」
初めて吐き出した言葉。恐ろしいほど重く、胸を潰しそうだった。
リコはしばらく黙っていたが、やがて首を傾げて言った。
「……カイン。それも、カインが見た『一場面』だけじゃないの?」
カインの思考が、完全に停止した。
トビーの事件。エリオのペンダント。自分が記憶視で見つめた過去も、思い込んでいる記憶も――すべて「一面」に過ぎないのではないか?
自分は本当に、師匠に見捨てられ、師匠を見捨てたのか――?
答えは出なかった。
その夜――「異変」は唐突に訪れた。
リコがアンナから貰ったパンを食べようとした、その瞬間だった。
「あ、今日はハチミツがついてる!」
無邪気な笑顔。カインもそれを見ながら作業をしていた。
ぽとん。
パンが床へ落ちた。
「……リコ?」
見ると、リコが呆然と自分の手を見つめていた。
指先が――透明に透けていた。
「……カイン?」
カインは作業椅子を蹴倒して駆け寄った。
「動くな!」
手、指、腕の輪郭が、まるで水に溶けるように薄くなっている。
「痛いか!? どこか苦しいのか!?」
「ううん……痛くないよ。大丈夫……」
「大丈夫なわけがあるか!!」
カインはペンダントを見つめた。今日、ほんの数秒だけ記憶視を使った。負荷は最小限だったはずだ。
それでも――リコに明確な影響が出た。
確定だった。カインが記憶視を使うたび、リコの存在そのものが世界から摩耗し、消えていくのだ。
「……くそッ!」
「カイン……?」
「二度と……二度と使わない!」
「でも……」
「少しでも駄目だ! お前が消えるくらいなら、二度と力なんて使わない!!」
リコの指先の輪郭が、ゆっくりと元に戻っていく。だが、カインの恐怖は消えなかった。
記憶を読み、真実に近づくたび、彼女が消える。なら、答えは一つだ。
何も直さなければいい。何も知ろうとしなければいい。そうすれば、彼女はここにいられるのだから。
◇
その夜。カインは店の外へ出ると、見慣れた看板を見上げた。
『壊れたもの、何でも直します』
風に揺れる木製の看板。
ガリバーの言葉が流れる。
――刻まれた時間を残したまま、未来へ渡すこと。
エリオの言葉が流れる。
――開けないままだと、中身を勝手に決めつけることになる。
リコの言葉が流れる。
――それも、一場面だけじゃないの?
カインは固い決意とともに、看板に手を伸ばし、取り外した。
◇
翌朝。旧市街の人々は、長年そこにあった看板が消えていることに気づいた。
看板は店の中、壁の隅にひっそりと立て掛けられていた。
そして、店の扉には一枚の紙が貼り出されていた。
『しばらく休業します』
それを見たリコは、長い間、何も言わずに紙を見つめていた。
そして――静かにカインを振り返った。
「……カイン。どういうこと……?」
その問いかけに、カインは振り返ることができなかった。




