第17話 見えた記憶だけでは分からない
前回に続き、エリオの銀のペンダントの修復です。
見えた記憶だけで人を決めつけないこと――カインが少しずつ学び始める回になります。
二十八年間閉ざされていたペンダントの中に、何が残されているのか。どうぞお楽しみください。
数時間後――。
薬液がゆっくりと錆の奥まで浸透し、固着していた留め金が、ようやく小さく動いた。
カチリ。
ほんのわずかな音だった。
だが、二十八年間閉ざされていたものが初めて反応したのだ。
「動いた!」
リコが椅子から身を乗り出す。
「騒ぐな。まだ開いてない」
カインはペンダントをランプの光へかざした。
留め金そのものは動く。
しかし、蓋は開かない。
何かが内部で引っかかっている。
細い針状の工具を隙間へ差し込み、角度を変えながら内部を探る。
「……駄目だな」
「壊れてるの?」
「違う」
カインは目を細めた。
「中で、布か紙みたいなものが噛み込んでる」
エリオが杖を握る手に力を込めた。
「取り出せそうか?」
「見えない以上、確実なことは言えない」
カインはペンダントを作業台へ戻す。
「完全に分解する方法もある。だが、この構造じゃ、一度強引に開ければ中身を破る可能性が高い」
「……そうか」
エリオは静かに俯いた。
その声に落胆はあった。
だが、急かす様子はない。
二十八年待った男だ。
今さら数時間、あるいは数日延びたところでどうということはないのだろう。
問題は――カインの方だった。
方法が一つだけある。
分かっている。
手袋を外して、このペンダントに触れる。
《記憶視》。
過去の扱われ方を見ることができれば、内部構造も、中に何が挟まっているのかも把握できる可能性がある。
以前なら、とっくにそうしていた。
だが今は。
カインの視線が、自然とリコへ向かった。
少女は店の棚から借りた本を開き、椅子の上で読んでいる。
元気そうだ。
顔色も悪くない。
だからこそ――使いたくなかった。
自分が記憶を見るたびに、リコへ何らかの影響が出る。
まだ仕組みは分からない。
だが、偶然と片付けるには危険すぎた。
「どうしたね?」
エリオの声に、カインは視線を戻した。
「……中の状態が読み切れない」
「それなら」
老人は少し迷ったあと、言った。
「あなたの『特別な力』を使えばいいのではないか?」
カインの目が鋭くなる。
「……知ってるのか」
「噂でね」
「誰から聞いた」
「この街では、秘密は守れんそうだ」
聞き覚えのある台詞だった。
ガリバーも似たようなことを言っていた。
「……つくづく口の軽い街だな」
エリオが少し笑う。
「私は構わない」
「何をだ」
「このペンダントの記憶を見ても」
カインの表情から、わずかに苛立ちが消えた。
代わりに、慎重な色が浮かぶ。
「俺には、見る記憶を選べない」
「ああ」
「修理に必要なものだけ見えるとは限らない。あんた自身が忘れたいことも、誰にも知られたくないことも見えるかもしれない」
カインは老人を真っ直ぐに見る。
「それでもいいのか?」
エリオは迷わなかった。
「それでもいい」
その答えを聞いても、カインはすぐには手袋を外さなかった。
以前の自分なら、許可など求めなかった。
見えるのだから見る。
分かるのだから使う。
それが修復師として正しいのだと信じていた。
だが今は違う。
見えてしまうことと。
見ていいことは。
同じではない。
「……少しだけだ」
カインが呟いた。
「中の状態を確認するだけ。数秒で切る」
エリオが頷く。
その時。
「カイン」
リコが本を閉じていた。
カインは少女を見る。
逃げるように目を逸らすことはしなかった。
「リコ」
「うん」
「前みたいに、お前に何か起きるかもしれない」
リコの表情が少しだけ硬くなる。
「……うん」
「俺は使わない方がいいと思ってる」
カインは言葉を選びながら続けた。
「でも、このまま無理に開ければ、中の紙を破るかもしれない」
リコは黙って聞いている。
「これは、俺だけで決めることじゃない」
カインは少しだけ息を吸った。
「お前にも関係する。だから聞く」
以前なら考えられなかった言葉だった。
「……数秒だけ、使ってもいいか?」
リコが目を丸くする。
それから、自分の指先をじっと見た。
しばらくして。
「うん」
小さく頷く。
「でも、変だと思ったらすぐやめて」
「ああ」
「約束ね」
「分かってる」
カインは右手の遮断手袋を外した。
久しぶりに空気へ触れた指先が、ひどく頼りなく感じる。
黒ずんだ銀のペンダント。
その表面へ。
そっと指を触れた。
――瞬間。
冷たい風が吹いた。
店の風景が歪む。
ランプも。
作業台も。
リコも。
すべてが消えた。
代わりに現れたのは――雨だった。
激しい雨。
石畳を打つ水音。
カインの目の前に、一人の若い男が立っていた。
エリオだ。
今よりずっと若い。
背筋も伸び、髪も黒い。
その向かいには、一人の女性がいる。
ミア。
肩までの髪を雨に濡らし、泣いていた。
『出ていけ!!』
若いエリオの怒声。
カインの胸へ、鋭い感情が突き刺さる。
『二度と俺の前に顔を見せるな!』
『エリオ……お願い、聞いて! 私は――』
『聞きたくない!』
エリオが怒鳴る。
『さっさと失せろ!!』
ミアの顔が歪んだ。
涙なのか雨なのか分からない雫が頬を流れていく。
やがて彼女は背を向けた。
走る。
雨の向こうへ。
若いエリオは――追いかけない。
声もかけない。
ただ冷たい目で、その背中を見つめていた。
「――ッ」
カインはペンダントから手を離した。
作業場が戻る。
ランプ。
机。
エリオ。
そして――リコ。
「リコ!」
「え?」
「手を見せろ」
「大丈夫だよ」
カインは少女の指先を確認する。
透けていない。
輪郭も崩れていない。
少なくとも今すぐ目に見える異変はなかった。
ほっと息を吐きかけて――止める。
記憶の内容が頭へ蘇った。
雨。
泣くミア。
罵声。
追い払うエリオ。
それだけを見れば、答えは簡単だった。
身勝手な男。
自分で愛する人を傷つけ。
自分で追い出し。
そして何十年も後悔している。
――自業自得だ。
昔のカインなら、そう断じていただろう。
だが。
黒インクに汚れた本を思い出す。
逃げる少年。
あの光景だけを見て、自分は「無責任な奴」と決めつけた。
実際には、その向こうに病気の妹がいた。
目に映った記憶は嘘ではない。
だが――。
それがすべてではない。
「……一つ訊く」
カインが言った。
エリオは、何かを覚悟したように顔を上げる。
「ああ」
「なぜ、ミアを追い出した」
老人の顔から血の気が引いた。
「……見えたのか」
「ああ」
カインは静かに答える。
「あんたは雨の中で、彼女を怒鳴りつけてた」
「……ひどい男だったろう」
カインはすぐには答えなかった。
「……分からない」
エリオが目を上げる。
「分からない?」
「ああ」
「今、見たんだろう?」
「見た」
カインはペンダントへ視線を落とした。
「でも、見えたのは一場面だけだ」
老人の目が揺れる。
「昔の俺なら、あれを見た時点であんたを最低な男だと決めつけてた」
「今は違うのか?」
「あんた本人から理由を聞くまでは決めない」
長い沈黙。
外では、夕方の風が古い看板を小さく揺らしていた。
やがてエリオが口を開く。
「……戦火が、エルディアへ迫っていた」
カインの身体が硬くなる。
「灰の戦争か?」
「……知っているのか」
「ああ」
「そうだ。あの戦争だ」
老人は遠い目をした。
「若い男は次々と徴兵された。街から逃げ出す者も増えていた」
杖を握る手が震える。
「だが、兵士の家族や、親しい者は逃亡を疑われた。監視され、自由に街を出ることができなくなった」
「……ミアも?」
「私と結婚する予定だった」
エリオの声が掠れる。
「だからこそ、駄目だったんだ」
リコも黙って聞いている。
「私の恋人だと知られれば、あの人まで街に縛り付けられる」
エリオが目を閉じた。
「戦争に巻き込まれる」
「だから――」
「嫌わせた」
老人は、自分を嘲るように笑った。
「大勢の前で罵った。関係などないと示した。私を憎んでくれれば、未練なく街を出てくれると思った」
「……本人には言わなかったのか」
「言えば、残ると言っただろう」
「……勝手だな」
「ああ」
エリオは否定しなかった。
「本当に勝手だった」
しばらくして、静かに続ける。
「私は彼女を守りたかった」
老人の目に涙が浮かぶ。
「だが、守るという名目で……あの人から選ぶ権利を奪った」
カインは何も言えなかった。
その言葉が、不思議なほど胸へ引っかかった。
「ミアは街を出た」
エリオが続ける。
「私の思惑どおりにな」
「生き延びたのか?」
「ああ」
老人は微笑んだ。
けれど、その笑顔は悲しかった。
「少なくとも、戦争では死ななかった」
「その後は?」
「二度と会えなかった」
戦争が終わったあと。
エリオは彼女を探した。
知人を訪ね。
手紙を送り。
行商人にも消息を訊いた。
だが返事はなかった。
「私は、当然だと思った」
エリオはペンダントを見つめる。
「心の底から憎まれたのだと」
「それで二十八年、開けなかったのか」
「……ああ」
老人の指が震える。
「これを開けば、彼女の本当の言葉が出てくる」
その声もまた震えていた。
「『あなたを許さない』」
「……」
「『二度と顔も見たくない』」
「……」
「そんな言葉が書かれているのだと……ずっと思っていた」
「なのに、なぜ今さら直そうと思った」
エリオはゆっくり顔を上げた。
「もう――逃げるのをやめようと思ったからだ」
その言葉が。
カインの胸の奥を強く打った。
逃げる。
王都。
修復院。
師匠ルシアン。
最後の日。
何かを言いかけていた師の顔。
だがカインは聞かなかった。
聞く前に背を向けた。
真実を確かめることから――逃げた。
「カイン?」
リコの声。
「……なんでもない」
カインはペンダントへ向き直った。
今見た記憶で、内部構造は分かった。
蓋の裏。
蝶番のすぐ上。
折り畳まれた紙がわずかに食い込み、留め金を内側から押している。
力ではなく。
ほんの少し位置をずらせばいい。
カインは極細の工具を差し込んだ。
わずかに押す。
角度を変える。
もう一度。
――カチリ。
小さな音。
エリオの肩が跳ねた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
二十八年間閉ざされていた蓋が持ち上がっていく。
「……」
誰も声を出さなかった。
中にあったのは。
茶色く乾いた、一輪の押し花。
そして。
その下に重ねられた――。
小さく折り畳まれた、一枚の紙だった。
「……手紙……」
エリオの声が震えた。
伸ばしかけた手が、途中で止まる。
二十八年間。
恐ろしくて開けられなかった言葉が。
今。
目の前にある。
カインは、その手紙を黙って見つめていた。
見えた記憶だけでは、分からない。
ならば――。
残された言葉を、自分たちの目で確かめるしかない。
エリオが震える唇を開いた。
「……修復師さん」
「なんだ」
「それを――」
老人は一度、目を閉じた。
そして。
「……読んでくれないか」
――第18話「届かなかった言葉」へ続く。




