第16話 錆びた手紙
羅針盤と地下の謎を前に、カインは《記憶視》との向き合い方を変え始める。
今回持ち込まれたのは、二十八年間開かなかった一つのペンダント。
錆の奥には、誰かの長い後悔が眠っていた。
レイヴンが店を訪れてから、三日が過ぎた。
カインはあの日以来、記憶視を一切使っていなかった。
いや――「使わないようにしていた」と言うべきか。
壊れた古い柱時計。
フチの欠けた陶器の皿。
脚の歪んだ真鍮の燭台。
いつものように、旧市街の人々から依頼は持ち込まれる。
以前なら、壊れた原因や構造が分からなければすぐに遮断手袋を脱ぎ、記憶に触れていた。
それが一番手っ取り早く、確実だったからだ。
持ち主がどう扱ったのか。
どこで壊れたのか。
何が起きたのか。
記憶から修理方法を割り出していた。
だが、今は違う。
まず自分の目で観察する。
音を聞く。
匂いを確かめる。
持ち主にじっくりと話を聞く。
分解する。
思考を巡らせる。
それでも原因が分からない時は――修復を断った。
少なくとも今は、リコが隣にいる限り、その力を解き放つわけにはいかなかった。
「カイン」
「なんだ」
「これ、何回目?」
リコが作業台の横で、小さな紙のメモを指で数えている。
「何のことだ」
「今日、記憶見ないで直した数」
「数える必要はない」
「六個」
「聞いていない」
「昨日は五個」
「だから何だと言うんだ」
「増えたね」
カインは工具を動かす手を止めた。
リコが嬉しそうに笑っている。
そこに悪意は一切なかった。
「別に……お前のためだけにやってるんじゃない」
「うん」
「普通の修復師は、記憶なんて見えないんだ。それが当たり前なんだよ」
「うん」
「俺だって、できるだけ頼らない方がいいに決まってる」
「うん」
「……分かっているのか?」
「カイン、心配してるんでしょ」
カインは固まった。
リコは無邪気に言葉を重ねる。
「私が……消えるの」
カインの指先がピクリと震えた。
「……違う」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ何?」
「……仕事のやり方を変えているだけだ」
「それを『心配』って言うんじゃないの?」
カインは深く、重い息を吐き出した。
「……お前、最近妙に口が達者になったな」
「アンナさんに本借りて読んでるから」
「余計なことを……」
「今日はね、『頑固』って言葉を覚えたよ」
カインは嫌な予感がした。
「使うなよ」
「カイン」
「使うなと言っている」
「頑固」
「リコ!」
少女は「あはは!」と声を上げて店内を逃げ回る。
その小さく跳ねる背中を見送りながら、カインは胸の奥が温かくなるのを感じ――ほんの少しだけ、口元を緩めた。
カラン……。
ドアの鈴が鳴った。
リコがパッと入口を見る。
「お客さんだ!」
入ってきたのは、一人の老人だった。
小柄で、背は丸く曲がっている。
灰色の古びた外套を纏い、木の杖を突いていた。
白髪交じりの頭。
年齢は七十を優に超えているだろう。
老人は店に入っても、すぐには口を開かなかった。
ただ静かな視線で、店内をゆっくりと見回している。
「……修復を頼みたい」
絞り出すような、静かな声だった。
カインが答える。
「品物は?」
老人は外套の懐から、小さな布包みを取り出した。
作業台の上で布を解く。
現れたのは、銀製のペンダントだった。
いや――「元は銀製だった」と言うべきだろう。
黒ずみ、緑青が吹き、全体が酷い錆で覆われている。
蓋の隙間には固着した汚れがびっしりとこびりついていた。
「……開かないのだ」
老人がポツリと言った。
「ずっとですか?」
リコが尋ねると、老人は少女へ優しく視線を向けた。
「二十年以上……開かない」
「二十年……?」
「正確には、二十八年だ」
カインの手が止まった。
二十八年。
三十年前の「灰の戦争」と、時期が極めて近い。
だが、それだけで軽率な判断はできない。
「お名前は」
「エリオ」
老人は答えた。
「エリオ・ハルトという」
「中に何が入っているか分かるか?」
「分からない」
「自分の所有物じゃないのか?」
「昔は……」
エリオは少しだけ目を伏せた。
「……ある大切な人のものだった」
「その人は?」
重い、長い沈黙が流れた。
「……もう、どこにもいない」
リコはそれ以上何も訊かなかった。
カインもだ。
以前の自分なら、「記憶を見ればすぐに理由が分かる」と考えただろう。
だが、今のカインは違った。
「開けるだけでいいのか」
「できるなら、頼みたい」
「内部が激しく痛んでいる可能性があるぞ」
「ああ」
「開けた結果、見たくないものが出てくるかもしれない」
エリオは、自虐的に少しだけ口元を緩めた。
「……それでも、頼みたいんだ」
カインは静かに頷いた。
「分かった。預かる」
作業台の上にペンダントを置く。
まずは外装の観察だ。
銀。
かなり古い年代物。
蝶番は完全に固着し、留め金も錆に埋もれている。
無理にこじ開ければ、薄い外殻が割れて二度と元には戻らない。
「時間がかかるぞ」
「待とう」
エリオは店の隅にある椅子に腰を下ろした。
リコがその隣にちょこんと座る。
「お茶、飲みますか?」
カインが呆れて振り返った。
「お前はいつからこの店の店員になったんだ」
「昨日から!」
「聞いていないぞ」
「アンナさんがね、お客さんにはお茶を出すと喜ばれるよって教えてくれたの」
「あの人は余計なことを……」
エリオがくすりと笑った。
「では、ありがたくいただこうか」
リコは嬉しそうに台所へ向かおうとする。
カインは慌てて制した。
「待て! お前、絶対に湯を沸かすなよ!」
「できるもん!」
「昨日、鍋を真っ黒に焦がしただろ!」
「ほんのちょっとだけだよ!」
「炭になってただろ! 座ってろ!」
結局、カインがお茶を淹れるハメになった。
その間、ペンダントを特殊な薬液に浸し、固着した錆を少しずつ浮かせ皮膜を緩めていく。
強い薬品は使わない。
削りすぎないよう、慎重に、慎重に。
かつてのカインなら、新品同様に銀色に磨き上げていたはずだ。
だが今は、真に必要な箇所にしか手を加えない。
「……綺麗にしすぎないのだな」
エリオがお茶を一口含み、感心したように呟いた。
カインは手を動かしたまま答える。
「必要なら磨く。だが、今は必要ない」
「必要ない、か」
「傷も、変色も、持ち主が刻んだ時間だ。残すべき理由は持ち主が決める」
老人は目を細め、静かに笑った。
「……不思議な修復師だな」
「最近そうなったんだよ」
リコが背後からニヒヒと笑いながら口を挟む。
「前はね、何でもかんでもピカピカにしてたんだから!」
「お前は黙っていろ」
エリオは楽しそうに目を細めた。
やがて、浮かび上がった錆の奥から、うっすらと繊細な彫刻模様が見え始めた。
花だ。
だが――あの七弁の花ではない。
どこにでもある、素朴な草花の模様だった。
カインは胸の中で、ほっと小さな息を吐いた。
「この模様に、見覚えは?」
エリオが深く頷く。
「……ああ。あの人が好きだった花だ」
「誰だ」
老人は、愛おしそうにその名を呟いた。
「……ミア」
たった一言。
だが、その声には万感の思いが込められていた。
カインは悟った。
エリオにとって、生涯忘れられない大切な存在なのだと。
「……奥さんですか?」
リコが尋ねる。
エリオは静かに首を横に振った。
「……奥さんになるはずだった人だ」
「ならなかったの……?」
「ならなかった」
気まずそうな顔をするリコを見て、カインは淡々と作業を続けた。
「……無理に話さなくていい」
「いや……」
エリオは少しの間を置いた後、自ら静かに語り始めた。
「若い頃……私は、あの人をひどく傷つけたのだ」
カインは手を止めず、耳を傾ける。
「何をした」
「……追い出したのだよ」
リコが顔を上げる。
「どうして……?」
エリオは答えなかった。
カインはペンダントを裏返し、微小な工具を固着した隙間に差し込む。
だが、手応えが硬い。
まだ開かない。
「無理に力をかければ破壊することになる」
「そうか……」
「もう少し時間をくれ」
「二十八年待ったのだ」
エリオはどこか遠くを見るような目をした。
「今さら一日や二日増えたところで、大した違いはないさ」
カインはその横顔を盗み見た。
深い後悔。
取り返しのつかない過去を背負った男の顔だった。




