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第14話 動かない羅針盤

三十年前の戦いと、七枚の花。

レイヴンが持ち込んだ壊れた羅針盤には、失われた町の記憶が残されていた。

そして修復の途中、止まっていたはずの針が示した先は――。


第14話「動かない羅針盤」、よろしくお願いします。

 黒い部品に、カインの指先が触れた。


 その瞬間だった。


 ――熱い。


 反射的に手を引こうとした。


 だが、遅かった。


 古道具店の作業台も、窓から差し込んでいた朝の光も、目の前に立つレイヴンの姿も、一瞬にして消えた。


 代わりに現れたのは、


 灰色の空だった。


 雲ではない。


 煙だ。


 空一面を、濁った灰と黒い煙が覆っている。


 焦げた木の匂い。


 焼けた鉄の臭い。


 喉の奥にまとわりつくような、乾いた空気。


 遠くで何かが崩れる音がした。


 石か。


 家か。


 それとも――もっと大きな何かか。


『走れ!』


 誰かの声がした。


 カインは振り返ろうとした。


 しかし、記憶の中では自分の身体を自由に動かすことはできない。


 見えるものを見る。


 聞こえるものを聞く。


 それだけだ。


『早く!』


 もう一度、声。


 今度は近い。


 視界の下に、小さな手が見えた。


 子どもの手だった。


 煤で真っ黒に汚れている。


 その手が、誰かの服を必死につかんでいた。


『置いていかないで』


 幼い声。


 次の瞬間。


 空が白く光った。


 轟音。


 そして――


 記憶は途切れた。


「……っ!」


 カインは大きく息を吸った。


 目の前に作業台が戻ってくる。


 椅子を引く音がして、リコが駆け寄った。


「カイン!」


 肩をつかまれる。


「大丈夫!?」


「……ああ」


 答えた声は、自分でも驚くほどかすれていた。


 額をぬぐう。


 汗がにじんでいた。


 ほんの数秒だったはずだ。


 それなのに、長い時間、火の中に立っていたような感覚が残っている。


「見えたのか?」


 向かい側から、レイヴンが言った。


 いつもの軽い調子ではなかった。


 カインはしばらく返事をしなかった。


 分解された羅針盤を見る。


 真鍮の外装。


 細い歯車。


 磁針。


 そして、その中心に埋め込まれていた黒い部品。


 石にも見える。


 金属にも見える。


 だが、どちらとも違う。


「……灰だ」


「え?」


 リコが聞き返した。


「灰色の空が見えた。町が燃えていた」


 レイヴンの顔から、わずかに表情が消えた。


「それから、小さな手」


「手?」


「ああ。子どもだと思う」


 カインは目を閉じた。


 もう一度、さっきの光景を思い出す。


 煤に汚れた指。


 誰かをつかんでいた。


 そして――


「『置いていかないで』と言っていた」


 店の中が静かになった。


 外では風が鳴っている。


 昨日から町に入り込んでいる灰混じりの風。


 窓枠が小さく震えた。


 リコが羅針盤を見る。


「それって……三十年前の?」


「まだ分からない」


 カインはすぐに答えた。


「見えた記憶が、いつのものなのかは断定できない」


 これは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。


 物の記憶が見える。


 だからといって、その意味まで正しく分かるわけではない。


 見えたものと、考えたことを混ぜてはいけない。


 そうしなければ、人の過去を勝手に作ってしまう。


「ただ……」


 カインは黒い部品を見た。


「ガリバーさんが話していた戦いと、似すぎている」


 三十年前。


 この地方を巻き込んだ戦い。


 灰に覆われた町。


 七枚の花。


 そして、誰も詳しく語ろうとしない過去。


 レイヴンが椅子に深く座った。


「なるほどな」


 それだけ言って、黙る。


「レイヴン」


 リコがじっと彼を見る。


「この羅針盤、どこで手に入れたの?」


「前にも言っただろ。昔から持ってる」


「昔って、いつ?」


「昔は昔だ」


「ごまかしてる」


「旅商人ってのは秘密が多い方が格好いいんだよ」


 いつもの笑み。


 だが、目は笑っていなかった。


 リコは引かなかった。


「この針が指してる場所、知ってるんでしょ?」


 その言葉に、


 カインも羅針盤へ目を落とした。


 問題はそこだった。


 修理前から、この羅針盤は壊れている。


 少なくとも、普通の羅針盤としては。


 方角を示さない。


 北を向くこともなければ、磁石に反応する様子もない。


 ところが――


 針は動かないわけではなかった。


 一定の方向だけを指している。


 店を移動しても。


 向きを変えても。


 羅針盤そのものを回転させても。


 針は、ゆっくりと元の方角へ戻る。


「北じゃない」


 カインが言った。


「ああ」


 レイヴンが答えた。


「じゃあ何を指してるの?」


 リコが尋ねる。


 今度は、レイヴンは笑わなかった。


 しばらく窓の外を見ていた。


 灰が一片、ガラスに当たる。


「故郷だよ」


 低い声だった。


 リコが瞬きをする。


「故郷?」


「ああ」


「そこへ行きたいから持ってるの?」


 レイヴンは答えない。


 代わりに、ゆっくり羅針盤へ手を伸ばした。


 だが、触れる直前で止めた。


「もうない」


「え……?」


「この羅針盤が指してる町は、もう存在しない」


 カインは顔を上げた。


「三十年前か」


 レイヴンの指が止まる。


 それだけで十分だった。


「……そうだ」


 リコが息をのんだ。


 カインは改めて羅針盤を見る。


 存在しない町を指す羅針盤。


 それならば、壊れているのは本当にこの道具なのだろうか。


「レイヴン」


「なんだ」


「一つ確認する」


 カインは工具を置いた。


「お前は、この羅針盤を直してほしいと言った」


「ああ」


「何をもって『直った』ことにする?」


 レイヴンが眉を上げる。


「普通の羅針盤みたいに北を指せばいいのか。それとも……」


 カインは針を見る。


「この場所を、今まで通り指すようにすればいいのか」


 レイヴンは答えなかった。


 リコも黙っている。


 時計の秒針だけが鳴っていた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 やがて、レイヴンが小さく笑った。


「面倒な修復師だな」


「そう言われることは多い」


「普通なら、動かない羅針盤を見たら、北を指すように直すだろ」


「俺は普通じゃないらしい」


「自分で言うか?」


「お前が言ったんだ」


 レイヴンは鼻で笑った。


 ほんの少しだけ、いつもの顔に戻る。


 だが、それも一瞬だった。


「……その町を指すようにしてくれ」


 静かな声だった。


 リコがレイヴンを見る。


「どうして?」


「帰りたいからじゃない」


 すぐに返事が来た。


「じゃあ?」


「忘れないためだ」


 灰色の風が窓を叩いた。


 カインの頭に、


 もう一つの声がよみがえる。


 ――忘れないで。


 三十年前の記憶の中で聞いた言葉。


 そして今、


 目の前の男もまた「忘れないため」と言った。


 偶然なのか。


 それとも――


「カイン?」


 リコの声で我に返る。


「どうしたの?」


「いや」


 カインは首を振った。


「何でもない」


 今はまだ、結びつけるべきではない。


 見えたものと推測は分ける。


 それが、自分で決めたルールだ。


 カインは再びルーペを目に当てた。


 黒い部品を直接触らないよう、細いピンセットで持ち上げる。


「これが原因だと思う」


「黒いやつ?」


「ああ」


 リコが顔を近づける。


「石?」


「分からない」


「金属じゃないの?」


「少なくとも、俺が知っている金属じゃない」


 黒い部品の中央には、細い筋があった。


 傷だと思っていた。


 だが拡大してみると違う。


 線が規則的に並んでいる。


 何かの模様。


「……待て」


 カインは角度を変えた。


 朝の光が差し込む。


 黒い表面に、ごく薄い刻印が浮かんだ。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 リコが息を止める。


 四枚。


 五枚。


 六枚。


 そして――


「七枚」


 花だった。


 七枚の花弁。


 カインは何も言わなかった。


 言葉にする必要がなかった。


 リコも。


 レイヴンも。


 それが何を意味するか、少なくとも一つだけは分かっていた。


 この羅針盤は、


 三十年前の戦いと無関係ではない。


 カインはピンセットを置く。


「レイヴン」


「なんだ」


「この印を知っていたか?」


 沈黙。


 レイヴンは答えない。


 その沈黙が、


 何より雄弁だった。


「知ってたんだね」


 リコが言った。


「……まあな」


「どうして言わなかったの?」


「言えば、お前たちは触らなかったか?」


 リコが口をつぐむ。


「少なくともカインは触っただろ」


「たぶんね」


「だろ?」


 レイヴンは椅子から立ち上がった。


「だから言わなかった」


「理由になってない」


「旅商人の理屈なんて、そんなもんさ」


 外套を羽織る。


「どこへ行く?」


 カインが尋ねた。


「仕事だよ」


「羅針盤は?」


「預ける」


 レイヴンは扉に手をかけた。


「直せるのか?」


 カインは分解された羅針盤を見る。


 歯車には摩耗がある。


 軸もわずかに曲がっている。


 だが、致命的な損傷ではない。


 問題は、この黒い部品だ。


 そして、


 その奥に残っている記憶。


「直してみる」


「そうか」


 レイヴンが扉を開ける。


 灰を含んだ冷たい風が、店の中へ流れ込んだ。


 彼は一歩外へ出てから、振り返った。


「カイン」


「なんだ」


「あまり深く見るなよ」


 その声音だけが、


 妙に真剣だった。


「物の記憶ってのはな」


 レイヴンは羅針盤を見た。


「持ち主より、正直だから」


 扉が閉まる。


 あとには、


 風の音だけが残った。


 リコがしばらく扉を見つめていた。


「……絶対、何か知ってるよね」


「ああ」


「追いかける?」


「いや」


 カインは工具を取り直した。


「まず、この羅針盤を直す」


「でも」


「約束したからな」


 リコは少し不満そうに頬を膨らませた。


 それから作業台の横に座る。


「じゃあ、私も見る」


「見るだけだぞ」


「分かってる」


「触るなよ」


「分かってるってば」


 カインは小さく息を吐いた。


 そして、


 最初の歯車を外した。


 カチリ。


 小さな金属音。


 その瞬間だった。


 止まっていたはずの羅針盤の針が、


 ほんのわずかに動いた。


「……カイン」


「ああ」


 二人は動きを止める。


 針は北を向かなかった。


 これまで指していた、


 遠い故郷の方角でもなかった。


 ゆっくり。


 本当にゆっくりと、


 針先が回っていく。


 そして――


 リコの前で止まった。


「え?」


 リコが自分を指さした。


「私?」


 カインは答えなかった。


 答えられなかった。


 黒い部品に刻まれた、


 七枚の花。


 失われた町。


 三十年前の戦い。


 そして、


 記憶を失った少女。


 バラバラだったものが、


 初めて一本の線で繋がりかけていた。


 窓の外で、


 灰の風が強く吹いた。


 まるで、


 忘れられていた何かが、


 ようやくこちらを見つけたように。

挿絵(By みてみん)

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