第13話 灰の風が吹く朝
三十年前、この街で何があったのか。
七弁の紋様を追うカインの前に、謎めいた旅商人レイヴンが現れる。
そして彼が持ち込んだのは――動かない古い羅針盤だった。
リバーと酒場で話した夜から――。
カインの、街を見る目が完全に変わった。
今までただ「古いだけだ」と思っていた建物。
土に埋もれた古い石碑。
路地の途中で不自然に途切れている石壁。
完全に使われなくなった井戸。
広場の端にぽつんと残る、不自然に黒ずんだ石段。
その一つ一つが、何か巨大な秘密を覆い隠しているように思えてならなかった。
三十年前。
この街で大きな戦いがあった。
分かったのはそれだけだ。
ガリバーはそれ以上、口を割らなかった。
だが、カインがオルゴールの記憶で見た光景と、その戦いが無関係だとは到底思えなかった。
炎。
兵士。
大量の灰。
そして――
『忘れないで』
という、あの少女の叫び。
朝。
カインは作業台の前に座り、七弁の紋様を描いた紙を見つめていた。
一枚、二枚……何度も描き直す。
オルゴールの蓋にあった紋。
トトの母親が刺した刺繍。
形は、完璧と言っていいほど一致していた。
「カイン」
「なんだ」
リコが横からひょっこり紙を覗き込んでくる。
「今日もそれ見てる」
「ああ」
「昨日も見てた」
「ああ」
「一昨日も」
「……分かったから黙っていろ」
「答え、出た?」
「出ていない」
「ずっと見てるのに?」
「見てるだけで答えが出るなら苦労はない」
リコは首を傾げ、うーんと少し考え込んだ。
「じゃあ、誰かに訊けばいいんじゃない?」
「誰にだ」
「ガリバーさん」
「話さない」
「アンナさん」
「知らないだろう」
「トト」
「知るわけがない」
「じゃあ……あの白い子」
カインの筆がピタリと止まる。
「……あれが言葉を話せると思うか」
「分からない」
「なら却下だ」
リコは作業台に頬杖をついた。
「カインって、分からないこといっぱいあるんだね」
「……悪かったな」
「悪くないよ」
リコはニカッと笑った。
「私も、分からないこといっぱいだから」
その言葉に、カインはぐっと言葉を詰まらせた。
リコ自身、名前以外の過去を何一つ覚えていないのだ。
分からないことだらけなのは、間違いなく彼女の方だった。
カラン……。
ドアの鈴が鳴った。
カインは素早く紙を裏返した。
「いらっしゃい」
言ってから、カインは自分で自分の声に違和感を覚えた。
以前の自分なら、
「何の用だ」
と不機嫌に吐き捨てていたはずだ。
リコも気づいたらしく、ちらりとこちらを見て口元を緩めている。
カインはそれを無視した。
店に入ってきたのは、見知らぬ男だった。
三十代後半、あるいは四十代前半だろうか。
どこか年齢の読みにくい男だ。
細身の体躯に、黒に近い灰色の長外套を羽織っている。
旅人らしく、革靴には乾いた泥がこびりついていた。
しかし、妙だった。
長旅をしてきた人間に特有の、あの疲弊感が欠片もない。
髪も、服装も、背負った荷物すらも、恐ろしいほどに整っている。
「こちらが修復店ですね」
声も静かだった。
丁寧で、柔らかい。
なのに――
カインは一目で、直感的な嫌悪感を抱いた。
「そうだ」
「カイン・セラ殿とお見受けします」
今度は明確に警戒の色を強めた。
「……誰から俺の名を聞いた」
男は薄く微笑んだ。
「この街に、腕の立つ修復師がいると聞きまして」
「だから、誰からだ」
「噂というものは、出所がうやむやになるものですから」
「名前は」
「レイヴン」
男は軽く頭を下げた。
「旅商人をしております」
リコが男をじっと見つめている。
ずっと、無言のままだ。
いつもなら新しい客には興味津々で質問を浴びせるはずなのに、今日は明らかに違っていた。
カインは気づいた。
リコの細い指先が、自分の服の裾をぎゅっと固く掴んでいることに。
「……どうした」
小声で尋ねると、リコも消え入りそうな声で答えた。
「……分からない」
「何がだ」
「この人……なんか、ヘン」
レイヴンと名乗った男は、聞こえていないフリをしていた。
あるいは、最初から気にしていないのか。
「依頼があります」
レイヴンは外套の内側から、細長い木箱を取り出して作業台へ置いた。
金属の留め金を外し、静かに開ける。
中には銀色のケース。
さらにその中へ、真鍮製の厳重な羅針盤が収められていた。
「……古いな」
カインは目を細めた。
かなりの年代物だ。
外周には細かな彫刻。
蓋には無数の小さな傷。
縁には黒ずんだ錆が浮いている。
そして、中央の針は――完全に停止していた。
「動かなくなって久しいのです」
レイヴンが言った。
「直せますか?」
カインは遮断手袋を装着した。
「状態を見る」
羅針盤を手に取る。
ズシリと重い。
見た目以上の質量感があった。
「……ただの方位磁石じゃないな」
レイヴンがわずかに目を細めた。
「お分かりになりますか」
「内部に複雑な別のカラクリが入っている」
「さすがですね」
「お世辞を言っても工賃は安くならんぞ」
「それは残念だ」
カインは蓋を開けた。
針は確かに止まっている。
だが、おかしかった。
曲がっているわけでもなく、軸が錆びついて固着しているようにも見えない。
「方角は?」
「ずっとそこを指したままです」
「北じゃないな」
「ええ」
カインは羅針盤をぐるりと回してみた。
だが針は動かない。
作業台の向きを変えても動かない。
東へ向けても、西へ向けても、針は頑なに同じ方向を指し示し続けている。
いや――
方向というよりは、わずかに「下」を向いて傾いていた。
「……何を指しているんだ、これは」
レイヴンは答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「分解していただければ、お分かりになるかもしれません」
その言い回しが、カインはどうにも気に入らなかった。
まるで――
カインが何かを起こすのを期待しているかのような口ぶりだ。
「……預かる」
「いえ、ここでお願いします」
「時間がかかるぞ」
「待ちますよ」
「店の中でか?」
「ええ」
カインはレイヴンを鋭く睨みつけた。
男は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
だが、目だけが――まったく笑っていなかった。
「……好きにしろ」
カインは作業台に腰を下ろした。
遮断手袋。
専用の細小工具。
蓋の留め具を慎重に外していく。
背後では、リコがいつの間にか少し離れた棚の影に隠れるように立っていた。
カインは羅針盤の内部に集中した。
外装の小さなネジを外す。
一つ。
二つ。
三つ。
内部の構造が露わになる。
普通の羅針盤とは明らかに違っていた。
無数の小さな歯車。
極細の銀線。
そして中央には――
黒い石のような未知の部品が鎮座していた。
「……なんだ、これは」
見たことがない。
王都の修復院の資料でも、こんな機構は扱った記憶がなかった。
カインはピンセットを取り、銀線を持ち上げようとした。
その時――。




