第7話:『五十キロの鉄塊と小さな背中』
第7話:『五十キロの鉄塊と小さな背中』
勤めていた町工場には、その日のうちに退職届を叩きつけた。後ろを振り返る気は毛頭ない。
迎えた採用試験当日。世界消防庁の屋外総合訓練場に足を踏み入れた瞬間、俺は嫌というほど「現実」を突きつけられた。
視界を埋め尽くすのは、見上げるような巨躯の群れだ。
筋肉の鎧を纏ったジャーマン・シェパード、引き締まった体躯のドーベルマン、頑強無比なラブラドール、果ては二メートル近い巨躯を誇るセントバーナードまで。どの受験生も使役犬・警察犬の血を引くエリート候補生ばかりで、毛並みの艶も骨格の厚みも段違いだった。
その巨漢たちの足元に、身長六十五センチ、シワくちゃのパグが一匹。
場違いどころの騒ぎではない。幼稚園児がヘビー級プロレスのリングに迷い込んだような空気だった。
「おい、見ろよあれ……」
「パグ? 愛玩小型種がなんで特別救助の選抜にいるんだ?」
「迷子か? トリミングサロンと間違えてんじゃねえのか」
ヒソヒソと交わされる嘲笑と冷笑。鼻を鳴らして見下ろしてくるシェパードの青年に、俺は平然と視線を流した。
笑いたい奴には笑わせておけばいい。現場で命を救うのは、血統書の肩書きでも、見せかけの筋肉のデカさでもない。
『――第一種目、五十キロ負荷走! 各員、所定の重量背負子を装着し、泥濘地と登り勾配を含む外周三キロコースを走破せよ! スタートラインにつけ!』
教官の怒号が響く。支給品置き場の台座に並んでいたのは、要救助者の体重を模した分厚い「五十キロの鉄塊」が組み込まれた無骨な背負子だった。砂袋と違って体積はコンパクトだが、そのぶん密度は凶悪な鉛の塊に等しい。
大型犬種どもは「フンッ」と片手で軽々と担ぎ上げ、肩ベルトを適当に引っ掛けてスタートラインへ並ぶ。
俺は台座の前に立ち、目の前の鉄塊を見つめた。今の俺の体重の三倍はある代物だ。
まともに腕力で持ち上げれば、その瞬間に腰の骨が砕ける。大型の真似をして二本足で突っ立って運ぶ気など、端からなかった。
(腕で担ぐな。骨格のアーチと、四本の足すべてで支えろ)
俺は背負子のハーネスと結束紐を極限まで短く締め直した。台座の縁に背中をぴったりと押し当て、鉄塊の重心が肩甲骨の真裏――背骨の最も太い軸の真上に来るように密着させる。重荷が身体から一センチでも離れれば、テコの原理で負荷は何倍にも跳ね上がるが、胴体と完全に一体化させれば無用な揺れは消える。前世の山岳救助で叩き込まれたパッキングの鉄則だ。
深呼吸一つ。台座から滑り下ろすようにして鉄塊を背中に乗せると同時に、俺は二足歩行を捨て、両手も地面につく「四つん這い」に近い極端な前傾姿勢をとった。
ズシリ、と内臓が潰れるような鉛の重みがのしかかる。だが、二本の後ろ足だけでなく、前足を含めた四肢の骨格すべてに垂直に荷重を分散させたことで、五十キロの質量が地面へと逃げていく。犬という生き物が本来持っている、最強の四足ブリッジ構造だ。
「おいおい、本当に背負いやがったぞあの毛玉……」
「無様だな、四つん這いで地べたを這いずってやがる。どうせ最初のぬかるみで潰れるさ」
『――位置について、用意、始めッ!』
号砲一発。大型犬種たちが雄叫びを上げ、二本足で凄まじい地響きを立てて飛び出していく。
俺は飛び出さない。初速でダッシュすれば、短頭種の狭い気道が一瞬で酸欠を起こし、心臓がパンクする。
顎を引き、前傾姿勢を維持したまま、四肢の肉球でぬかるんだ地面を確実に掴んで押し出す「歩調歩行」。
大股で跳ねるのではなく、上下動を極限まで殺し、鉄塊の位置エネルギーを前に進む推進力へと変換する。心拍数をレッドゾーン手前の一定値に固定し、呼吸のリズムを決して乱さない。
(吸って、吸って、吐く。――熱を溜めるな、自分のペースを絶対に狂わされるな)
コース中盤、ぬかるんだ泥濘地を抜けて長い登り勾配に差し掛かったあたりで、早くも異変が起き始めた。
腕力任せに猛ダッシュした大型連中が、緩いベルトの中で暴れる五十キロの鉄塊に体幹を揺さぶられ、次々と喘ぎ声を上げて失速し始めたのだ。走るたびに背中で鉄塊が跳ね、その遠心力と衝撃が二本の足と腰の筋肉を容赦なく破壊していく。
「ぐっ……お、重ぇ……! 腰が、砕ける……!」
「ハァッ、ハァッ……足が、泥に取られて上がらねえ……!」
泥の中に膝をつき、前のめりに倒れ込む巨躯のシェパード。
その真横を、一匹の小さなパグが追い抜いていく。額のシワには泥がこびりつき、フンガ、フンガと酸欠寸前の酷い鼻息を鳴らし、口からは無様に涎を垂らしている。
だが――背中の鉄塊だけは、ミリ単位すら揺れていなかった。
四肢で規則正しく地面を刻むその歩みは、一台の精密機械のように完全に統率されていた。
「な……ッ!? なんであいつ、あんな息も絶え絶えなのに、歩調がピタリと一定なんだ……!?」
泥にまみれて見上げる大型受験生たちの目が、信じがたい怪異を見るように驚愕に見開かれた。




