第8話:『鉄の棒と肉球のロック』
第8話:『鉄の棒と肉球のロック』
泥濘の外周コースを完走した俺たちを待ち受けていたのは、グラウンド脇にズラリと並んだ頑丈な高鉄棒の列だった。
『――第二種目、懸垂! 合格基準は連続二十回! 顎がバーを明確に越え、下ろした際に肘が伸び切るまでを「一回」とカウントする。反動の利用は一切無効。時間無制限、限界まで引け!』
教官の無慈悲な声に、さっきの五十キロ負荷走で足腰を削られた大型の受験生たちがざわめく。
消防や救助の現場において、懸垂は単なる筋トレではない。崩落現場で梁にぶら下がる、あるいは瓦礫の亀裂から自力で這い上がるための「生死を分ける絶対筋力」の指標だ。
次々と鉄棒にぶら下がる大型犬種たち。だが、彼らの誇りである巨躯――八十キロから百キロ近い体重が、ここでは残酷な牙を剥いていた。
最初の五回こそ怪力で軽々と顎を越えさせるが、十回を過ぎたあたりで太い前腕がパンプアップし、悲鳴を上げ始める。
「ぐっ……ぬぅぅ……っ!」
『――反動を使うな、ノーカウント! 肘を最後まで伸ばせ!』
「くそっ、十九……だ、だめだ、腕が上がらねえ!」
身体をよじって反動をつけようとしたシェパードが教官に容赦なく弾かれ、ドサリと地面へ落下する。体重が重く、腕が長ければ長いほど、自重を引き上げるエネルギー消費は跳ね上がるのだ。
「次、受験番号四十二番、エイキチ!」
呼ばれて鉄棒の真下へ歩み出る。
見上げる鉄のバーは地上二メートル半。二メートル級の大型獣人たちに合わせた高さであり、身長六十五センチのパグの視界からは遥か天上に思えた。
「ぷっ……おい、あいつバーに届くのかよ?」
「ジャンプしたって一メートルも届かねえぞ、棄権しろ毛玉!」
下卑た嘲笑が飛び交う。だが、俺は踏み台など探さなかった。
鉄棒の脇に立つ太い鋼鉄の支柱へ抱きつくように飛びつくと、短い四肢を必死に巻き付け、分厚い肉球の摩擦力を頼りに尺取り虫のようにジリジリとよじ登った。そのまま支柱の頂上から横へ身を乗り出し、鉄のバーをガシリと掴む。
(前世じゃ三十回は楽勝だったが……問題は、この犬の前足だ)
犬型獣人の手は、人間ほど五本指の独立可動域が広くない。指先の力だけでバーを握れば、肉球が滑ってすぐに前腕の握力が尽きる。
だから俺は、ただ握るのではなく、手首をバーの上へ深めに巻き込み、手首の付け根にある硬い肉球(手根球)をバーの上面に引っ掛けるようにロックした――体操や特殊救助で使われる『フォールスグリップ』だ。これなら指の力に頼らず、手首の骨格と腱の摩擦だけで身体を吊り下げられる。
「不格好に支柱を這い上がって取り付きやがった……だが、その短い腕じゃぶら下がっただけでちぎれるぜ」
「二十回なんて夢のまた夢だな」
下から見上げる大型連中の冷やかしが耳に入る。
だが、バーにぶら下がった瞬間、俺のシワくちゃな口元には自然と不敵な笑みが浮かんでいた。
(……軽い。笑えるくらい軽いぞ)
五十キロの鉄塊に押し潰されかけたさっきと違い、今の負荷は自分の身体だけだ。体重わずか十五キロ前後の小柄な骨格。しかも、このずんぐりした極端に短い腕なら、肘を伸ばし切った下死点から顎がバーを越えるまでの引き上げ距離は、たったの十五センチそこらしかない。
体重が六分の一、引く距離が三分の一。大型連中と比べて、一回あたりの物理的な仕事量が桁違いに少ないのだ。
(腕の筋肉で引くな。肩甲骨を背骨に引き寄せ、背中で引け)
反動は一切使わない。
息をフンッ、と短く鼻から吐きながら、広背筋をキュッと絞り込む。
スッと、まるで重力を無視したかのように滑らかに丸太のような身体が浮き上がり、ペシャリと潰れた短いマズルと顎がバーの上へと軽々と突き出た。
『――一!』
教官の声が響く。
下ろすときも関節に丸投げして脱力落下するのではなく、背筋でブレーキをかけながら肘が完全に伸び切る下死点まで綺麗にコントロールして下ろす。そして間髪を入れずに二回目。
『――二!』
『――三!』
『――四!』
大型連中が顔を真っ赤にして身体をよじらせながら悶えていたのとは次元が違う。ブレのない一本の精密なピストンのように、等間隔の機械的なリズムでパグの身体が上下を繰り返す。
周囲の冷笑が、急速に凍りついたような静寂へと変わっていった。
『――十四!』
『――十五!』
さすがに短い前腕の腱が熱を持ち、太い首の筋が浮き上がる。短頭種の気道がゼイゼイと嫌な音を立て始めるが、前世で培った「乳酸の限界からあと五回絞り出すパルス呼吸法」で酸素を送り込み、意識を研ぎ澄ませる。
『――十九!』
そして――
「……フンガアアアッ!」
気合一閃、喉の奥から絞り出した濁った咆哮とともに、二十回目の引き上げ。バーの上に短い顎がしっかりと掛かり、ピタリと静止する。
『――二十! 基準クリア!』
教官のカウントが響いた瞬間、俺はバーから手を離した。二メートル半の高さから落下し、足裏が土を捉えた瞬間に全身の関節を畳む。ずんぐりした身体をボールのように丸めて斜め前方へと転がり、衝撃を完全に逃がすプロの受け身を打ってから、ドサッと無骨に立ち上がった。
泥まみれでフンガフンガと荒い鼻息を吐く俺の周囲には、さっきまで嘲笑っていた大型受験生たちが、顎が外れそうなほど口を開けて固まっていた。




