第5話:『漆黒の指揮官と銀の笛』
第5話:『漆黒の指揮官と銀の笛』
白日の路地にパグの老人を引きずり出した瞬間、俺はすぐさまアスファルトに膝をついた。助け出しただけで終わりではない。ここからが本当の勝負だ。
「おい、爺さん! 目を開けろ!」
肩を叩きながら顔面を覗き込む。自発呼吸はあるが、極めて浅く不規則だ。短頭種特有の潰れた鼻先と弛んだ軟口蓋が、煙の熱で腫れ上がって気道を塞ぎかけている。このままでは舌根沈下と喉頭浮腫で窒息死する。
(階段を引きずり下ろした衝撃がある、首を無理に反らすのは危険だ。おまけにパグの太く短い首じゃ後屈は効きにくい……下顎だけを押し上げるぞ!)
俺は分厚い肉球のついた短い両指を老人の下顎角――エラの骨の端に引っかけ、前上方へとぐっと持ち上げた。頸椎を動かさずに気道を開く、下顎挙上法だ。
ズッ、と老人の喉の奥から煤混じりの痰と空気が抜け、荒い息が通る。そのまま片手で下顎を固定しつつ、もう片方の前足――人差し指と中指にあたる肉球の縁の、最も感覚が鋭い部分を老人の首筋に押し当て、頸動脈の拍動を探った。微弱だが、脈はある。
「ボーッと突っ立ってんじゃねえ、デカブツども! 早く酸素吸入器と担架を持ってこい! 気道熱傷を起こしてる、喉が完全に腫れ上がって塞がる前に高濃度の酸素を送り込め!」
取り囲んでいた大型犬の隊員たちへフンガフンガと鼻を鳴らしながら怒声を飛ばした、その刹那だった。
「――そこで何をやっている、小僧ッ!」
大気をビリビリと震わせるような、地を這う重低音の咆哮。
凄まじい威圧感に全身の短い被毛が逆立ち、俺は反射的に顔を上げた。
見上げるような長身。煤ひとつない仕立ての良い漆黒の刺子防火衣に、襟元で鈍く光る銀色の指揮官笛。
ピンと鋭く立った両耳に、無駄な肉の一切ない鋼のようなマズル。鋭利な琥珀色の瞳で俺を見下ろしていたのは、筋骨隆々としたドーベルマンの老練な現場指揮官だった。
(……中身は三十五歳だし、顔もシワだらけのはずだが、このデカブツからすりゃ小僧サイズかよ)
「民間人がみだりに規制線を破り、現場を引っ掻き回すのは重罪だ。貴様、死に場所でも探しに来たのか」
研ぎ澄まされた刃物のような視線が、俺を射抜く。
だが、その琥珀色の眼光はすぐに俺の短い両手――不格好な肉球で老人の下顎角をミリ単位の狂いもなく固定し続け、呼吸音の乱れに神経を研ぎ澄ませている手捌きへと移った。さらにその視線が、老人の下に敷かれた熱泥まみれの毛布の結び目と、俺の口元に付着した木綿の糸くずへと滑る。
ドーベルマンの指揮官の眉が、ピクリと跳ね上がった。
「……頸椎を保護したままの下顎挙上、的確な頸動脈の触知、気道熱傷の初期判断。しかも、毛布を即席の索具に仕立てての引きずり搬送か」
低く呟かれた声から、険しい怒気がスッと引いていく。
代わりに宿ったのは、信じがたい怪異を目の当たりにした熟練者特有の、底知れない観察の光だった。
「先ほど、うちの前線に噴霧放水の角度を指示したのも貴様だな」
「……あんな風上から棒状放水ぶち込むようなヘタクソ見せられたら、誰だって怒鳴りたくもなるさ」
パグ特有の鼻息交じりのだみ声ながら、俺は下顎を保持する手を緩めず、真っ直ぐに睨み返して言い放った。
瞬間、ドーベルマンの口元がわずかに吊り上がる。まるで極上の獲物を見定めた狼のような、獰猛で不敵な笑みだった。
「……面白い。救急隊、この要救助者を担架へ収容! 気道確保を継続したまま、全速で港湾病院へ搬送しろ!」
指揮官が銀の笛を短く鋭く吹き鳴らすと、硬直していた屈強な隊員たちが弾かれたように駆け寄り、パグの老人は素早く救急車の車内へと運び込まれていった。モーターサイレンを響かせて遠ざかる赤色灯を、俺は煤と泥だらけの顔で見送る。
ようやく肩の力を抜いた俺の前に、ドーベルマンの指揮官が歩み寄り、分厚い革手袋に包まれた大きな手を俺の小柄な肩にポンと置いた。その視線が、俺の作業着の胸に縫われた『羽塚発動機修理工場』の刺繍と、袖口に染み付いた機械油の黒ずみを捉える。
「手際が見事すぎたな、小柄な火消し小僧。――どうだ、町工場の油まみれで終わる気がないなら、うちの署でその『目』と『牙』を活かしてみないか?」
耳元に低く落ちてきたその言葉を残し、漆黒の指揮官は黒煙の立ち込める前線へと、長い外套の裾を翻して踵を返していった。




