第4話:『熱泥の階段と背中の重み』
第4話:『熱泥の階段と背中の重み』
黒煙の層を割り、軋む木造階段を腹這いに近い低姿勢で這い上がる。
外にいる消防隊が、俺の怒号でようやくノズルを噴霧に切り替えたらしい。一階へ撃ち込まれた霧状の水が天井の熱気を叩き、崩れ落ちた長屋の土壁と煤を巻き込んで、階段の表面にぬるりとした「熱い泥」の層を作っていた。
一段這い上がるごとに、頭上の熱気層が刃となって耳先を焼き、膝と肉球が熱泥にまみれる。
二階の踊り場。突き当たりの板戸の前にたどり着いた俺は、即座に手を引っ込めた。
一階からの煙を遮断しようと住人が閉め切ったのだろうが、古い建具の隙間からすでに黒煙が噴き出し、真鍮の引手金具は触れるまでもなく猛烈な輻射熱を放っている。
(……床下と壁の裏を通って、可燃性ガスが二階にも充満してやがる。開けた瞬間に気流が乱れれば、天井のガスに引火して火の海だぞ)
息を吸うな、濡れ手拭い越しに短く吐け。自分に言い聞かせる。
俺は着ていた濡れた作業着の袖口に右手を引っ込め、布地を分厚く重ねて指先を保護した。身体を戸の脇の壁にぴったりと張り付かせ、袖で覆った右手だけで、歪んだ板戸をわずか五センチだけスライドさせる。
――ゴウッ!
隙間から噴き出した濃密な黒煙が、階段室の気流とぶつかって渦を巻く。直後、室内の天井面を赤黒い炎の舌が舐めるように走った。ロールオーバー現象――フラッシュオーバーの一歩手前だ。
最初の一波が頭上を抜けた、まさにその隙。
俺は板戸を蹴り飛ばしてレールから外し、姿勢を低く保ったまま室内の畳の上へと滑り込んだ。
充満する濃煙の底、通りに面した窓格子のすぐ下に、ぐったりと倒れ込んでいる影を捉えた。先ほどまで助けを呼んでいた、小柄だが丸々と肥えたパグ型の老獣人だ。
「爺さん! しっかりしろ!」
肩を強く叩くが、返事はない。ただでさえ短頭種特有の気道の狭さがある上、喉をゼロゼロと苦しげに鳴らして意識を失っている。一酸化炭素中毒と熱気吸入の初期症状だ。同じパグの俺には、この爺さんに残された時間が「秒単位」だと痛いほど理解できた。
窓から下へ落とそうと見上げたが、太い木格子は頑丈に打ち付けられており、おまけに一階の軒先から噴き上がった火炎が窓の外側を舐め始めていた。ダメだ、この小さな身体では格子を破壊する時間もなければ、窓から出せば直下の炎に巻かれる。
(……階段を下りるしかねえ! 一階の玄関先は、外の放水で火勢が落ちてるはずだ!)
だが、今の俺は身長六十五センチの小柄なパグだ。同じ種族とはいえ、丸々と太った老人を背負い上げる筋力もなければ、脇の下に腕を差し込んで抱えるだけのリーチすらない。
(力で運ぶんじゃねえ。道具と摩擦を使うんだ!)
俺は咄嗟に傍らに敷かれていた木綿の毛布を引っ張り出し、老人の身体を転がしてその上へ乗せた。毛布の端を老人の肩口から胸の前へと回して固く束ね、即席のハーネスを作る。
束ねた毛布の結び目を短い両手で鷲掴みにし、さらに口元の手拭いをずらして、パグ特有の強靭な顎と奥歯で布の端を思い切り噛み締めた。四肢と顎の力を総動員した、獣人仕様の後方引きずり搬送――ドラッグキャリーだ。
「ッ……ぐ、重ぇなクソ爺さん! 舌噛むなよ、死ぬ気でついてきやがれ!」
短い後ろ足で畳を強く蹴り、後ずさりで老人を踊り場へと引きずり出す。
その背後、二階の天井の梁がバキバキと爆ぜるような音を立てて火の粉を撒き散らし、先ほどまで老人が倒れていた窓際へと焼け落ちた。間一髪だった。
吹き付ける熱風が背中の短い被毛をチリチリと焦がしていく。その激痛に奥歯を鳴らしながら、俺は老人の頭部を自分の腹でかばうようにして階段の縁へと躍り出た。
階段を覆う、崩れた土壁と消火水が混ざり合った熱泥。そいつが毛布の底面と絡み合い、絶好の潤滑剤となって摩擦を殺す。
俺は老人の重みを背中で受け止めながら、熱泥の階段を滑り台のように一気に滑り降り、一階の玄関口から外の路地へと転がり出た。
「ゴホッ! ゲホッ、フンガッ……!」
白昼の光の下。煤と熱泥にまみれ、鼻を鳴らしながら荒い息を吐く一匹の小さなパグが、自分よりひと回りも重い同種の老人を引きずり出してきた瞬間。周囲を取り囲んでいた野次馬と大型の消防隊員たちの怒号が、嘘のようにピタリと止まった。




