第3話 :『熱気層の下を這うもの』
第3話:『熱気層の下を這うもの』
表の空気を吸おうと、アパートの建て付けの悪い引き戸をガラリと開けた瞬間、俺は立ち尽くした。
視界を行き交う人々――いや、その表現は正しくない。
仕立ての良い背広を着こなしたブルドッグ、前掛けを締めて荷車を引くボクサー犬、買い物かごを提げて井戸端会議をする柴犬。誰もが二本足で立ち、服を着て、平然と煙草を燻らせたり談笑したりしている。
ここは本当に、犬型獣人たちが築いた異国の社会なのだと、ようやく胃の腑に落ちた。
その日常を切り裂いたのは、空気を震わせるモーターサイレンの咆哮と、けたたましい真鍮の警鐘だった。
『――緊急車輌が通過します! 進路を譲ってください!』
拡声器から響く野太い声とともに、赤色灯を回した真紅の消防車が坂道を駆け上がっていく。続いて、甲高いサイレンを鳴らす救急車。車道を行くオート三輪やボンネットトラックが一斉に路肩へ寄り、道を空けた。
坂の上から吹き下ろす風に乗って、焦げ臭いゴムと木材の燃える匂いが鼻腔をかすめる。
(近いな……二区画先、あの坂の上か!)
考えるより先に、短い足が勝手に地を蹴っていた。三十五年かけて魂に染み付いた反射は、種族が変わろうと誤魔化しようがなかった。
ずんぐりとした短い足で必死に坂を駆け上がり、鼻の奥をフンガフンガと鳴らして酸欠寸前の荒い息を吐きながら現場へ辿り着いた時には、すでに路地裏の木造二階建て長屋は黒煙に包まれていた。
一階の窓から赤黒い火炎が舌を巻き、濃密な煙が狭い路地を満たしている。すでに先着の消防隊がホースを伸ばして放水していたが、その動きを見た瞬間、俺の奥歯がギリリと鳴った。
(……おいおい、嘘だろ。なんで風上から火点の真正面に棒状放水をぶち込んでんだ!? 水流のピストン効果で、熱気と一酸化炭素が全部二階へ押し上げられてるぞ!)
しかも、空気呼吸器すら装備していないシェパード系の隊員たちが、屋内への突入を試みては鼻先を押さえて激しく咳き込み、立ち往生していた。犬特有の鋭敏すぎる嗅覚と鼻呼吸の本能が仇となり、有毒ガスと刺激臭で完全に感覚を奪われているのだ。
「助けてくれぇっ! 爺さんが、爺さんがまだ二階にいるんだ!」
見上げれば、二階の嵌め殺しの木格子にすがりつき、小型犬種の老人が必死に手を振っていた。だが、一階から押し上げられた黒煙が窓を覆い、その姿がみるみる掻き消えていく。
猶予はない。煙の色と脈動からして、あと一分でフラッシュオーバー――室内全体が爆発的に燃え上がる。
「おい、そこの小型! 民間人は下がってろ、危ないぞ!」
規制線にいた大型の隊員が、太い腕で俺を制止しようと手を伸ばしてきた。
俺はその腕を潜り抜けるように払い除け、腹の底から怒鳴りつけた。
「正面から棒状で撃つな、熱気を奥へ押し込んでどうする! ノズルを絞って噴霧に切り替えろ! 開口部の上端を叩いて排煙を促せ! あと一分で全室フラッシュオーバーするぞ、要救助者ごと蒸し焼きにする気か!」
「なっ……!?」
パグの喉から出たのは相変わらずフンガフンガと鼻が鳴る滑稽な声だったが、修羅場を潜り抜けてきた現場指揮官の殺気と的確な戦術用語に、屈強な大型犬の隊員が一瞬気圧されて硬直する。
その隙に、俺は路傍の防火水槽に積まれていた消火バケツを掴み、頭から冷水をぶっ掛けた。ずんぐりとした胴体の短い毛の芯まで水を吸わせ、腰に挟んでいた手拭いを濡らすと、潰れた鼻孔ごと塞ぐようにきつく口元へ巻き付ける。犬の本能である鼻呼吸を断ち、濡れ布越しの口呼吸だけに意識を切り替えた。
「二階の窓の下に防水布を張って待機しろ! 俺が中から丸太みたいな身体ごと体当たりして窓格子をぶち破り、爺さんを落とす。下はお前らが受け止めろ!」
制止の声を背中に置き去りにし、俺は姿勢を床から三十センチの高さまで落とした。
煙と熱気は上部に溜まる。大柄なシェパードたちには息ができない灼熱の空間でも、床スレスレのわずかな層――中性帯の下には、まだ生き残るための空気が残っている。
小柄なパグの身体を最大の武器に変えて、俺は黒煙渦巻く火炎の坩堝へと、地を這うように突入した。




