第2話 :『畳の上の毛玉』
第2話:『畳の上の毛玉』
鼻腔を突いたのは、干し草に似た懐かしい匂いだった。
――畳だ。それも、かなり年季の入った安アパートのい草の匂い。
それだけじゃない。部屋の隅に溜まった綿埃の匂い、湿った木材の匂い、果ては外を通り過ぎた誰かの排気ガスの残り香までが、暴力的なまでの解像度で鼻の奥へなだれ込んでくる。
意識が急速に覚醒していく。二日酔いの頭痛もなければ、あの夜、軽自動車に撥ね飛ばされて砕けたはずの胸の激痛もない。
(……どうなってる? 俺は確か、コンビニの前で緊張性気胸を起こして……)
誰かが救命処置をしてくれたのか。いや、おかしい。高度救命救急センターの処置室に畳など敷いてあるはずがないし、消毒液の匂いも、生体モニターの電子音も聞こえない。
疑問を抱きながらせんべい布団を跳ね除け、上体を起こそうとした瞬間、猛烈な違和感に襲われた。
身体の重心が異常に低い。床を突いた腕のストロークが、異様に短いのだ。おまけに、深く息を吸い込もうとすると、鼻の奥が「フゴッ」と妙な音を立てて詰まる。
視線を落とす。
そこにあったのは、見慣れた筋骨逞しい消防士の腕ではなかった。フォーンと呼ばれる薄茶色の短い毛並みに包まれた、丸太のようにずんぐりとした腕。幼児のように短い五本の指の裏には、ぷにぷにとした黒い肉球がちょこんと収まっている。
「……は?」
声を出そうとしたが、喉から漏れたのは「きゃふっ」と掠れた間の抜けた音だった。
寝ぼけているのか。いや、夢にしては肉球が捉える畳のざらついた感触が生々しすぎる。
四つん這いに近い不格好な格好で布団から這い出し、六畳一間の壁際に立てかけられた姿見の前へと転がり込む。そのまま鏡の枠に短い手をかけ、よたよたと二本の後ろ足で立ち上がった。
鏡の中に、そいつはいた。
額に刻まれた深いシワ、黒いマスクを被ったように泥棒ヒゲめいた鼻周り。ぺしゃんと潰れた極端に短いマズルと、少し外斜視気味の大きな黒い瞳。
どこからどう見ても、愛嬌と哀愁の極み――パグそのものの顔をした、二頭身半ほどの小柄な獣人がそこに立っていた。
俺が右手を上げると、鏡の中のシワくちゃな顔もぽてんと短い右腕を上げる。首を傾げると、同じ角度で額のシワが寄った。
「……嘘だろ。犬は犬でも、なんでよりによってパグなんだよ!」
思わず叫んだが、緊迫感のかけらもないフンガフンガという鼻息交じりの声が六畳間に反響しただけだった。せめてシェパードとかドーベルマンならまだしも、これじゃあ火災現場の瓦礫どころか、段差一つ越えるのも一苦労じゃないか。
混乱する頭を抱え、身に纏っていた着古した作業着のような上着の懐をまさぐる。分厚い肉球が邪魔をして上手く布地を掴めない。どうにか両手で挟み込むようにして、小さな革の二つ折り財布を引っ張り出した。
爪先と肉球を必死に擦り合わせ、もどかしさに舌打ちしながら中から抜き取ったのは、プラスチック製のカード――見慣れたフォーマットでありながら、決定的に記載内容の異なる運転免許証だった。
【ジャパウ国 第一種普通車輌運転免許証】
氏名:ハヅカ・エイキチ
種族区分:犬科・短頭種系小型(身長六十五糎)
免許の条件等:小型特装車及び座面昇降・ペダル延長措置車に限る
右上に貼り付けられた顔写真の枠には、今さっき鏡で見たばかりの、何とも言えない哀愁を漂わせたパグの無表情な顔がしっかりと印刷されていた。




