07 即位
王を見送ると、クテシフォンの宮では次の務めが待っていた。香の煙が柱のあいだに薄く残り、葬を見届けた者たちは評議の間へと向かう。
嘆きのあとに続くのは、冠を巡る問いであった。
広間に諸侯と高官らが顔をそろえる。燭台の火が揺れる中、誰もが口を閉ざしたまま、ひとりの王子の言葉を待っていた。
進み出たのは、王太子カオセスである。外套の紐を胸元で結び直し、彼は床を踏みしめた。
「父王は、古き法に従って葬られた」
その声は、葬送の疲れを押し隠してよく通る。
「ならば、その法は今も生きていよう。王の位は長子に継がれる。これは古より揺らぐことなき定めだ。諸卿も異論はあるまい」
諸侯の列にわずかな身じろぎが走った。だが誰ひとり、すぐに言葉を返そうとはしない。葬の香と冠の重さが、同じ空気のなかで絡み合っている。
カオセスは唇の端を引き結んだ。長子として家を継ぐのは自分であるという思いを、幼き日より胸の芯に据えている。
その前に、一人の男が歩み出た。メボデスである。カオセスに一礼すると、落ち着いた調子で口を開いた。
「殿下の仰せ、法に拠るところまことに明らかにございます。しかし一つ、忘れてはならぬことがありましょう」
カオセスの目が細められる。
「何を忘れたというのだ」
「王の位は、お一人の御心ばかりで定まるものではございません。ペルシアの王権は、諸侯と貴族らの合議に支えられてきました。法もまた、その合議を離れては形を保てませぬ」
誰もが、カオセスの言葉とメボデスの言葉とを胸の内で量り比べていた。
カオセスは一歩、メボデスに詰め寄る。
「そなたは古き法を退け、新たな定めを立てよと言うのか」
「いいえ、殿下」
メボデスは首を振った。
「古き法を守るためこそ、諸侯の前で正しき形を踏まねばなりません。ここでただ長子なれば王と決めてしまえば、後の世に乱れを残しましょう。法は、誰の目にも明らかであってこそ力を持つもの。その力を損じぬためにも、貴族たちの評議を経て、殿下の御位を定めるべきと存じます」
諸侯の列から、かすかな相槌が洩れる。ひとりがうなずけば、隣もまたわずかにうなずいた。メボデスの言が胸に届きつつあるのは明らかである。
カオセスは視線を巡らせた。自らに忠を誓ったはずの男たちが、露骨ではないにせよメボデスの言葉に傾き始めている。その様が胸の奥を刺す。
「よかろう」
しばしの沈黙ののち、カオセスは言った。
「ならば、諸侯と貴族、みなの前で決めるがよい。古き法が真実わが側にあるのなら、評議の場でも異論は出まい。それを証とする」
メボデスは深く頭を垂れる。
「畏まりました。すみやかに全ての貴族を呼び集めましょう。ペルシアの王冠が、法と議決の上に置かれていることを、誰の目にも明らかにいたします」
人々は立ち上がり、それぞれの持ち場へ散っていった。冠を巡る次の場が、形を取り始めている。
ほどなくして応急の大広間に、諸侯と貴族の家々の長が列を成した。誰も咳ひとつ洩らさず、前方の一段高い場所を見つめている。
そこへメボデスが進み出た。定められた礼のあと、まずは亡き王の名を呼ぶ。
「クバード陛下は、長きにわたりこの国を治め、戦と和議とをもって領土を守られた。諸卿も、その恩を知らぬ者はおるまい」
うなずく者が多く、あちこちで目が伏せられた。
メボデスは続ける。
「そのクバード陛下が、終わりの日に一つの文を残された。病床にありながらも、ペンと印章を手に取られ、自らの意を記されたのです」
彼は侍従から巻物を受け取ると、封を解いて広げた。羊皮紙には王の署名があり、その横にははっきりとした印が見える。
メボデスは高らかに読み上げた。
「ペルシア人の王クバードはここに定める。我が末の子ホスローをして、わが跡を継がしめ、この王国を治めしめよ。諸侯と民は、この者を我が跡を継ぐ王として認め、その命に従うべし」
広間に狼狽が走る。
「この定めに背く者は、王と神々の前に責めを負うと知るべし」
そこまで読み上げたときであった。
カオセスの列のあたりから、くっと押し殺したような笑い声が洩れる。
最初は低く、やがてこみ上げるものを抑えきれぬかのように、その声は高くなる。悲しみとも怒りともつかぬ笑いであった。予感していた結末がまさしく目の前に姿を現したことへの、自らを刺すような嘲りが混じっている。
諸侯は顔を見合わせた。誰も言葉を差し挟めぬ。列の中ほどにいたザメスは、兄の横顔を見つめた。涙も怒号もなく、笑いだけが漏れている。胸の奥で何もかもが崩れ落ちたのだとザメスには分かった。
メボデスは一度咳払いし、巻物を持つ手をわずかに引き締めると、最後まで読み終える。
「ここに記された署名と印は、陛下みずからのものにございます。これに異を唱える者はありますか」
問いかけののち、大広間に沈黙が広がった。やがて一人の諸侯が席を立ち、声を上げる。
「我らはホスロー殿下を、新たなるペルシアの王と仰ごう!」
その言葉に、別の列からも賛同の声が続いた。異議はない、王はホスロー殿下、と幾つもの声が重なっていく。
呼び出されていたホスローは、前へ進み出た。まだ若い顔に表情を浮かべることなく、深く頭を垂れる。
「父王の遺した道に従い、この身をもって国をお支えいたします」
その言葉に、諸侯の列から再び賛意の声が上がった。こうして、ホスローが王位に就くことが、この場で定められたのである。
× × ×
幾日かが過ぎた。王宮の一隅にあるカオセスの居所では、陽が半ば閉ざされた帷のすき間から入り込み、床に転がる割れた器や杯を照らしている。侍僕たちは戸の陰で息を潜め、呼ばれぬかぎり中へは近寄ろうとしない。
ふいに、奥から声ともつかぬ息が洩れた。
「はは……あれか。やはり、あれか。ホスローよ」
狂気じみた笑いが、続けざまにこぼれる。カオセスは乱れた衣の帯を締め直しながら、肩を震わせていた。
「思っていたとも。父があれを可愛がるさまを、何度見た。枕辺に呼ぶのも、語りかけるのも、同じ顔ばかりだった」
几の上の文書束を荒く払う。紙片が床へ散り、印の押された書が裏返った。
「法だと?長子の権利だと?そんなものは、父の情ひとつで塗り潰された」
そこでまた、笑いが込み上げる。
「見事なものだ。古き定めも、学者どもの言葉も、愛された子ひとりの前には役に立たぬ」
戸口でためらっていた侍僕が、そっと人影に道を譲った。ザメスである。彼は一礼して部屋に入り、兄の背を見つめた。窓際に立つカオセスの肩は、痩せたように見えるが、その指先はなお苛烈な力を宿している。
「兄上」
呼びかけると、カオセスは振り向きもせずに言った。
「来たか、ザメス。王の槍を振るうにふさわしい男が」
声には皮肉が混じっていたが、底に沈んでいるのは自分自身への嘲りである。
「私は……」
ザメスが言葉を探すあいだに、兄は顔を横に向けた。その目は憔悴しているが、どこか冴えた光も帯びている。
「聞け。法など無い。あるのは、父が誰を見つめたか、それだけだ。愛された者が王となる。残りはその影だ」
ザメスは口を閉ざした。兄の言葉に反論しようとすれば出来た。古き法を持ち出し、諸侯の合議を挙げることも出来る。だが、病床の間で幾度となく見た父の視線を思い出せば、舌は自然と動きを失った。
「お前は槍を振るえ。ホスローは冠を戴く。私は……」
カオセスはそこで言葉を切り、喉の奥で笑う。
「私は、古い話にしがみついた愚か者だ。いつか歌い手が、こう語るだろう。長子は法を信じたが、父の心を得られなかった、とな」
肩が落ちる。その姿を見ていると、ザメスは胸に堪えるものを覚えた。兄に向けて差し出せる言葉は、結局ひとつとして浮かばない。
「兄上、いずれ……」
何かを続けかけて、ザメスは頭を垂れる。
「また、参ります」
それだけ告げると、彼は踵を返した。背後で押し殺した笑いがもう一度だけ洩れ、やがて足音も途絶える。
ザメスは回廊を歩みながら、父の最期の日々を思い返した。病の床で、父が誰の名を呼んだか。枕辺に集う子らのうち、誰の肩に手を伸ばしたか。
兄には長子としての誇りが与えられていた。家を継ぐべき者として育てられ、古き法の名を盾に立つことを許された。自分には槍と馬とが与えられた。戦場で名を挙げ、王の軍を支える役目が与えられた。
だがホスローには、それとは別のものがあった。父の顔が和らぐのは、末子が言葉を交わすときであった。病が深まったのちも、手招きして呼び寄せたのは、弟の姿ばかりである。
兄上は法を信じた。私は槍を信じた。けれど父は、心をひとりに与えられたのか。
胸の内でつぶやきながら、ザメスは歩を止めた。嫉む心はなく、ただその偏りが、のちの世にどのような影を落とすのかを思い量る。
やがて広間の扉の前に出ると、中から人の声が聞こえた。新たな王のために据えられた坐があり、その前で勅を読み上げる声が響いている。
戸口から一歩退き、ザメスは頭を垂れた。厚い扉の向こうには、冠を戴くホスローの姿があるはずである。父が名を記し、印を押して選んだ王。その玉坐から伸びる光と影のうち、自分がどこに立つことになるのかを思い描きながら、ザメスはゆっくりと拳を握った。




