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08 乱政

 クテシフォンの大広間で王冠がホスローの額に載せられていたころ、はるか西の境では、その余波が別のかたちで現れていた。


 マルティロポリスでは崩れた胸壁に仮の石が積まれ、その脇に焼けた梁が山をなしている。広場では負傷兵と避難民が身を寄せ合い、粥が配られていた。


 その上に立つ高楼から、帝国の将シッタスとヘルモゲネスが外を見下ろす。城を遠巻きに囲むペルシア軍の幕と旗が、土の野に帯のように並んでいた。


 「長くは保たぬな」


 シッタスが遠くの陣火に目を据えたまま言う。


 「糧も矢も尽きかけている。こちらが門を閉ざしているあいだに、別の敵が背を突いてこぬとも限らぬ」


 ヘルモゲネスは北の山並みを顎でさした。フン族の動きはすでに伝わっている。


 「和平の使節は、すでにペルシア王のもとにいる。ここで血を流し続ければ、両国とも損をするだけだ」

 「ならば、あの幕舎へ言葉を届けるほかあるまいな」


 シッタスは腕を組み、息を吐いた。


 「こちらは誠を示さねばならぬ。名の通った者を、人質として差し出す覚悟がいる」


 名が挙がったのは、マルティヌスとシッタスの親衛の中でも知られた男セネキウスの二人である。彼らは異存なしと答え、鎧をあらためて身につけると、白布を掲げた小さな一隊の先頭に立った。


 城門が軋む音を立てて開き、見張り台から角笛が鳴らされる。門前で兵たちが列を作り、出ていく一隊に右手を当てて敬礼した。


 同時刻、ペルシア軍の陣に母国からの使いが砂煙を上げて駆け込んでいた。泥に汚れた外套の男が幕舎の前でひざまずき、短く告げる。


 「クバード王が崩じられました。末の王子ホスロー殿下が王位を継がれたとのことにございます」


 幕舎の中で、将たちは互いの顔を見交わす。王が替われば命令も替わる。この城を落とすまで兵を縛っておくべきか、秤は揺れ動いた。


 その折、帝国側の使節が現れ和平の交渉が始まる。皇帝の名において送られた使節団がいま王のもとにあり、この包囲が和議の妨げとなっていること、令名高い者たちを人質として差し出す用意があることが、ひとつひとつ告げられた。


 しばしののち、ペルシアの将はうなずく。


 「人質を預かり、兵を退こう。あとの決め事は、王と皇帝とのあいだで定まるだろう」


 やがてマルテュロポリスに、退陣を命じる旗が掲げられた。遠巻きの陣が崩れ、槍と幕の列がゆっくりと地平の向こうへ退いていく。


 その少し後、北方からフン族が押し寄せたが、そこにはもはや大軍はいなかった。奪うべき兵糧に乏しいと見るや、彼らは深追いを避け、短い襲撃ののち草の海の彼方へ消えていく。


 こうしてマルティロポリスの包囲は、新たな血を増やすことなく終わりを告げたのである。



  ×  ×  ×  



 ホスローがペルシア王に即位してからの日々は、宮廷の者たちが思い描いていたものとは違う形で始まった。


 新たな王は、朝まだきから書記官を呼び集め、勅令の文を次々と口にする。兵の数を改めよ、地方の徴税の道筋を変えよ、官職の名を新たに改めよ。どの言葉も胸にふと浮かんだ思いつきのようでありながら、紙の上に記されればたちまち国を縛る決まりとなった。


 書記官は追いつかず、机上には未完の文が積まれていく。ひとつを書き終えぬうちに、ホスローは別の案を言い出す。昨日命じたばかりの勅令を、自らの口で翻すことさえあった。


 「もっと良い形があるはずだ」


 そう言っては、彼は文を破り捨て、また同じことを言い直す。


 評議の場でも同じであった。諸侯や高官らを前に、ホスローは新たな税の取り立て方や、兵を集める仕組みを語る。言葉の端々には、国を立て直そうとする焦りがにじんでいたが、地に足をつける前に次の案へ跳ねていく。


 それでは民が混乱する、と進言する者もいたが、王はすぐに顔をそむけた。


 「民は慣れる。父の時と同じことをしていては、帝国にもフン族にも遅れをとる」


 声には張りがあったが、その響きの奥には、自らを追い立てるような険しさがある。


 日が改まるごとに、新しい布告が掲げられた。だがそれらはどれも十分に行き渡る前に書き換えられ、城内の役人たちは前日の指示と今日の指示のあいだで頭を抱えるようになる。どの文を信じてよいのか、誰にもはっきりとは言えない。


 やがて宮廷の廊には、疲れた足どりが目につくようになった。役人も兵も、王の顔色をうかがいながら口を噤む。諸侯のあいだには、新王の気まぐれに振り回されているという思いが、言葉にならぬまま積もっていった。


 ホスロー自身もまた、思うように事が運ばぬことに苛立っていた。報告を聞き届ける前に席を立ち、叱咤の言葉を重ねることが増える。夜更けまで勅令の草案を改めさせ、それでも胸の中のもやは晴れなかった。


 ある夕刻、彼はひとりで庭に出た。柱廊の陰からは、誰も近づこうとしない。王の足もとは、手入れの行き届いた敷石と水路であるはずなのに、その眼には遠い土地の土埃が浮かぶ戦場ばかりが映っている。


 若くして王の坐に押し上げられた者は、自らの影の長さを測る暇もない。ホスローは池の水面を見下ろしながら、冠を授かった日のことを思い返した。父の遺した文は確かに自分の名を指していた。だが、その一行が本当に自分の力を見て書かれたものなのか、それともほかの誰かの思惑が手を添えたのか、答えはどこにも見つからなかった。


 風が衣の裾を揺らす。ホスローは口を閉ざしたまま、庭の奥に目を向けた。そこには、若き王が寄りかかるべき背もたれはなく、広い空と、まだ形を持たぬこれからの治世が横たわっている。



  ×  ×  ×  



 一方、王宮の一隅では、別の一日が過ぎつつあった。


 カオセスの居所は、かつて王太子として政務に出入りしていた廊から遠く離れている。扉の前には番兵が立っていたが、内の人を守るというより出入りを監視する役目を負わされているような佇まいであった。


 室内では、古い文書と系譜の巻物とが卓の上に広げられている。カオセスは椅子に腰をおろし、ペンを執るでもなく、その行間を目で追っていた。父祖の名が連なり、その端に自らの名がある。さらに先には、今や王となった弟の名が続いていた。


 戸口で足音が止まり、控えめな咳払いが聞こえてくる。


 「入れ」


 カオセスが顔を上げると、かつて自らのもとで働いていた廷臣が数人、慎み深く進み出た。いずれも新王の勅令に振り回されていると噂に聞く顔ぶれである。


 「殿下のお具合を案じ、参上いたしました」


 年長の一人が深く頭を垂れた。


 「我らは今も、殿下を王太子としてお仕えした日のことを忘れておりませぬ」


 言葉は節度を守っていたが、その奥には別の思いが潜んでいる。ホスローの名は出さずとも、日ごとに改められる命令と宮廷に広がる倦みが、その沈黙のうちにあった。


 カオセスは手を上げ、余計な言葉を制す。


 「ここは、嘆きを並べる場ではない」


 叱責ではなく、自らにも向けた戒めであった。


 「父は、末の子を選んだ。諸侯もそれを認めた。事実はそれだけだ」


 廷臣たちは顔を上げ、主の眼差しを受け止める。その瞳には、かつて評議の間で声を張り上げた頃とは異なる色があった。激しさを奥へ潜め、その代わりに何かを量る影が宿っている。


 「ペルシアは風に揺れる葦ではない。誰が冠を戴こうと、戦も税も、民の暮らしも続いていく」


 カオセスは机上の巻物を指先で撫でた。


 「覚えておけ。王が道を踏み外したのであれば、その跡を正すのは、名も刻まれぬ者たちの働きだ」


 それが誰を指すのか、明確な言葉にはしない。廷臣たちは互いに目を見交わし、やがてうなずく。


 「殿下のお心、承りました」


 一人がそう言い、他の者も続いた。


 彼らが去ると、カオセスは席を立ち、窓の外に目をやる。王宮の屋根は黄昏に染まり、新たな治世の幕開けといずれ訪れるであろう日のこととが、同じ色合いの中に溶けて見えた。


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