06 遺詔
マルティロポリスの名がクテシフォンで語られ始めたのは、セオセスの裁きからそう遠くない日のことであった。国境で結ばれ損ねた和が、ついに槍と盾のかたちをとって現れたのである。
マルティロポリスは国境を見張る城であり、帝国がこの一帯で信頼を置く砦でもあった。その城を包囲せよと命じたのは他ならぬクバードである。彼の地ではゾロアスター教の教えに従うべしとの勅が出され、死者を地に埋めることを禁ずる旨が伝えられていた。だが山々のあいだには、古くからの祈りと土を離れまいとする者が多く、王の定めは人の心に根付いてはいない。
信仰の強要が反発となり、マルティロポリスの城壁をめぐる戦へと姿を変える。城を囲んだペルシア軍の陣からは、包囲が順調に続いているとの報がクバードのもとにたびたび届いた。兵が城門に近づきつつあること、城内の守りが日に日に疲れを見せていること。いずれも王の心に帝国への道を開く前触れのように映る。
だが、別の報もあった。皇帝ユスティヌスがシッタスやヘルモゲネスといった将を国境近くに差し向け、マルティロポリスの行く末を見守っているのだという。彼らは城を救うためすぐに軍をぶつけることはせず、遠くの高地に陣をとって時を計っていた。
やがて、妙な話が王都にも届くようになる。東方の草原の彼方で、マッサゲタイの民が再び動き始めたとの噂である。かつてペルシアに深い傷を負わせた騎馬の民。その旗が、今また王国の境に向かっているという話は、最初は酒場と市の片隅でささやかれるだけであったが、やがて軍の者たちの間にも広がっていく。
クバードは、耳にした噂を侍従に書き記させた。マッサゲタイの名が紙の上に現れるたび、クバードはわずかに眉をひそめる。国境の別の場所で火が上がれば、マルティロポリスの包囲軍をどこまでそのまま置いておけるだろうか。老いた王の胸には、戦と自らに残された刻が、次第に重くのしかかり始めていた。
勝報を待つ日々のあいだに、クバードの身は次第に衰えていく。以前は自ら玉坐に昇って評議を開こうとした王も、今は臥所から遠くへ出ることが難しくなっていた。医を司る者たちは香草を煎じ、脈に触れては言葉を濁す。
その日、クバードは枕辺に侍る宦官を見やり、かすれた声で命じた。
「メボデスを呼べ」
ほどなく戸が開き、メボデスが部屋の奥へと進んでくる。かつて戦場にも従ったこの男は、今はペンをもって王の政を助けていた。彼は床の脇に膝を折り、額を敷物に近づけてから顔を上げる。クバードは壁に掛けられた王冠の方へと一度視線をやり、それからメボデスを見据えた。
「わしは、遠からず冠を誰かに譲らねばならぬ。だが死ののちに、この国の者どもがわしの言葉を聞き流し、それぞれの思うままに事を運ぶのではないかと、それが案じられてならぬ」
メボデスはうなずく。
「陛下が恐れておられること、よく分かります。死の床で語られた言葉は、時が過ぎれば耳からこぼれます。ですが、文の形で残されたご意志は違います」
クバードは眉をひそめた。
「文にして、何が変わる」
「古き法に照らしても、王が諸人の前で示された文は、誰も見ぬふりが出来ませぬ。貴き方々も、臣下も、陛下の署名と印の前では、己の思惑を隠さねばならぬでしょう」
メボデスの声には硬い芯がある。
クバードはしばらく天井を仰いでいたが、やがて息を吐いた。
「ならば書け。わしが誰を王として望むのか、その名とともに」
メボデスは控えていた宦官に命じ、文机を近くに運ばせる。板の上に羊皮紙が広げられ、その傍らに葦のペンが備えられた。
「この私が陛下のお考えをそのまま記しましょう」
メボデスがペンをとると、クバードは言葉を紡ぎ始める。
「ペルシア人の王クバードは、ここに定める。我が末の子ホスローをして、わしの後を継ぎ、この王国を治めしめよ。諸侯と民は、この者をわしの跡を継ぐ王として認め、その命に従うべし」
メボデスは一語一語を書きつけていった。王の名、ホスローの名、諸侯と民に向けられた命令。そのどれもが、後に争いを呼び込まぬよう、余計な綴りを避けている。
「この文により、わしの意志を世に示す。わしが死したのち、この定めに背く者は、王と神々の前で責めを負うと知るべし」
クバードの声がかすれると、メボデスはペンをとめた。
「書き終えました」
彼は文を読み返し、羊皮紙の下辺に余白を残す。
「ここにご署名と印を」
侍従が王の手を支え、印章を運んだ。クバードは震える指で自らの名を記し、その下に王の印を押す。印が乾いていくあいだ、クバードはじっとそれを見つめていた。
「メボデスよ。まずはこの文を、カオセスらに気取られぬよう諸侯と国の長たちに示せ。わしの耳と目が届かぬところでも、この言葉がわしの代わりに立つように」
メボデスは頭を垂れる。
「かしこまりました。この文が、陛下のお考えを曲げぬ盾となりましょう」
彼は文を巻き、印の押された外面を覆うよう布で包んだ。その手の中には、ひとりの王の行く末と、王子たちの運命とが重なっている。
メボデスが文を密かに諸侯と州の長にそれを示して回ったのち、日々はほどなく尽きた。王宮の奥では香が焚かれ、病床の王の傍には祈りを司る者たちが交代で詠唱を続けている。
ある朝、東の空がわずかに明るみ始めたころ、クバードは長く続いていた息をひとつ吐き、そのまま胸の起伏を止めた。侍従が顔を上げたときには、王の瞳から光が消えている。すぐに王宮の中庭へ使いが走り、城壁の上には喪を表す布が掲げられた。
クテシフォンの町に、鐘とともに訃報が行き渡る。商いの台が閉じられ、長く国を治めてきた王の死は、人々の胸に重い影を落とした。
遺骸は王宮の一室に移され、浄めの務めにあたる者が集まる。水と香油が用意され、身体には清めの粉が振りかけられた。指には指輪がはめられ、胸元にはこれまで幾度も勅を読み上げてきたときと変わらぬ飾りが置かれる。
陽が高くなると、王を送る列が支度された。門前には諸侯と将軍たちが並び、その後ろには市の名のある者たちが膝をついている。先頭には王の冠と剣とが捧げられ、そのあとに覆いをかけられた寝台が続いた。
クテシフォンの外れに至ると、一行は石を積み上げた場所の前で足をとめる。そこは王家のために設けられた場であり、遺骸は地にも火にも触れぬよう、高い台に運ばれることになっていた。
列の中ほどには、王の子らが並んでいる。
カオセスは胸の紐を固く結び、背筋を伸ばして立っていた。父王から目立った寵愛を受けた覚えは少ない。それでも長子として、この家の名と冠を自らが受け継ぐべきだと信じてきた。古い法も先祖の例も、その考えを支えている。
その隣にはザメスがいた。若くして戦の功を立て、兵のあいだでは兄より名を知られることも多い。だが彼は、継承の列に自らの名がないことをよく理解していた。生まれた順がすべてを定めると教えられてきた年月が、彼の思いを一つの場所に落ち着かせている。
兄の肩越しに見える寝台を見つめながら、ザメスは胸のうちで言葉を結んだ。この国を守るのは冠を戴く者の務めばかりではない。矢と槍を受けるのは戦場に立つ者の仕事である。ならば自分は、自分に与えられた場所で兄と国土を守る柱になればよい。
少し離れた位置に、ホスローの姿があった。彼は兄たちより若く、目には涙をにじませ、ときおり袖でそれを拭ってみせる。
しかし、その瞳の奥には別の光が宿っていた。数日前、寝所へ呼ばれたときに見た羊皮紙の色と、メボデスの口から告げられた言が、彼の記憶に新しい。王が自らの名を指し示し、諸侯と州の長にその意志を示すと告げたあの刻から、ホスローにとって世の形は変わっている。
列の先で祈りの声が高まり、王の遺骸が石の台へと運び上げられていった。カオセスは真っ直ぐにその様子を見上げ、ザメスは拳を固めたまま唇をかみしめる。
ホスローは兄たちの横顔を横目にとらえた。長子の誇りと、次男の忠義。そのどちらも古い法の上に立っている。だが法そのものを動かす力がどこにあるのか、彼はすでによく理解していた。法と文とを操る者の側に身を置けば、血筋の列は別の形に並び替えることが出来ると。
唇の端がわずかに持ち上がりかけたのを、ホスローは頭を垂れることで隠した。




