04 国境
ビュザンティウムの宮の床に、窓の影が落ちていた。ユスティヌスは玉坐に身を正し、侍従から差し出された羊皮紙を手に取る。
「クバード王より、ふたたびの文にございます」
封泥を割ると、細かな文字が行を埋めていた。戦の終息を望む言葉とともに、ホスローの養子縁組について、文書によってその仕方を定めよとある。しかも、その定めのためには、ローマでも名高い者を使節として寄越すよう求めていた。
ユスティヌスは黙然と読み進め、やがて視線を脇に送る。そこにはユスティニアヌスとプロクルスが控えていた。
「和平を求める心は変わらぬようだが、この望みようはどう見る」
問いに応じたのはプロクルスである。彼は一歩進み出て、玉坐の前で深く身を折った。
「ペルシア王は、言葉の装いをもって帝国の力を引き寄せようとしておるのでしょう」
ユスティニアヌスが眉をひそめる。
「やはり戦を終えるための縁と受け取ることはできぬか」
プロクルスは首を横に振った。
「和平そのものに異議はございません。されど、ホスロー殿を陛下の子として書き記せば、その文はやがて証となりましょう。ペルシア人は先々に至るまでそれを掲げ、帝国の力を我がものと言い立てるに違いありませぬ」
彼は周囲を見渡し、声をひそめる。
「蛮族は文によってではなく、武器と鎧によって子を養うと申します。もし養子縁組の仕方を問われましたなら、その言葉をもって答えなさるがよろしゅうございます。彼らに似つかわしいやり方として」
謁見の間にざわめきが走った。ユスティヌスはしばしの沈思ののち、うなずく。
「和平は結ばねばならぬ。長き戦で疲れた民を、これ以上苦しめるわけにはいかぬ。しかし帝国の名を他国の血の下に置くこともまた、許されぬ」
彼は立ち上がり、近くに控える侍従に命じた。
「使節を選ぶ。一人は先帝アナスタシオスの甥ヒュパティウス。彼は東方を知る者であり、兵を率いたこともある。もう一人はシルウァヌスの子ルフィヌス、パトリキウスの中でも名高く、父祖の時代からクバードに知られておる。二人にこの文と我らの答えを託そう」
ユスティニアヌスが進み出て、膝を折る。
「私もまた、彼らに言葉を添えとうございます。帝国の法を曲げることなく、平和を求める道があることを、しかと伝えさせてください」
「よし、そなたの名もまた文に記させよう。帝位を継ぐべき者がこの方針に同じくあるならば、後の世に迷いは少なかろう」
こうして、帝国の高位の者がペルシアとの境へ遣わされることが、宮廷で定められた。ビュザンティウムの塔に翻る帝国の旗の下、使節団の旅支度が始まる。
幾日かのち、鷲章を戴く槍の列は、起伏のゆるやかな野を進んでいた。後方には境の丘陵と川筋がかすんで見える。ヒュパティウスは馬上から遠くを見やり、並んで進むルフィヌスに声をかけた。
「ここが帝国とペルシアの境か」
「左様です。古くから商人と使節が行き交った道にございます」
やがて、約された会談地が見えてくる。低い丘を背にした平地に、帷を張った幕が二つ向かい合うように立っていた。片方には帝国の鷲旗、もう片方にはペルシアの旗が翻っている。
帝国側の使節が幕に入ると、すでにペルシア側の二人が席に着いていた。アドラスタダラン・サラネスの称号を帯びるセオセスと、マギステルの位にあるメボデスである。互いに名を告げ、定められた順に挨拶の言葉を交わしたのち、卓上に羊皮紙が広げられた。
「両国のあいだに横たわる困難を取り去るため、ここに集った」
ヒュパティウスが言うと、セオセスもまたうなずく。
「我らとて戦を好むわけではない。クバード王は、帝国がかつての約を守り、互いの地を侵さぬことを望んでおられる」
ルフィヌスは、その言葉のひとつひとつを胸の内で量りながら耳を傾けた。戦の成り立ち、この数年の争いごと。話題は順に移り、いずれも紙の上に記されていく。尖った言い回しが現れても、双方とも古い礼に従い応じていた。
どれほど時が過ぎたころか、セオセスがふいにペンをとめる。
「しかし、ひとつ忘れてはならぬ地がある」
彼はそう言ってゆっくりと顔を上げた。
「ラジカの地だ。あれは古くからペルシア王の庇護の下にあった国である。ところが帝国は、力にものを言わせてこれを奪い取り、いかなる理由もなく自らのものとした」
ルフィヌスの手が卓上で固まる。ヒュパティウスは彼の横顔にちらと目をやった。ラジカはたしかに帝国の掌中にはあるが、今日の議には挙がっていない。和平の条件を調える席で、その名が唐突に持ち出されたのである。
「ここで語るべきは、今続いている戦と、その終わらせ方に関することであろう」
そう告げて、ルフィヌスは言葉を呑んだ。セオセスの視線は、揺らぎのないままこちらを射ている。ラジカについての一言は、単なる領土の話では済まぬ。帝国が不正を働いたと公に書き残させるための、細い刃のような一節であった。
帷の外では、国境の風が鳴っている。卓をはさんで向かい合う四人の間に、目に見えぬ溝がひとつ増えたことを、ルフィヌスははっきりと感じていた。
ルフィヌスは口をひらく。
「今の戦は、ラジカのために始まったものではありません。にもかかわらず、その地のことをここで持ち出されるのは、帝国に非があったと書き残させるためと受け取らざるを得ません」
セオセスは肩をすくめた。
「我らは事実を述べただけだ。古くからペルシア王のもとにあったものを、帝国が奪ったということをな」
言葉の端に、わずかな嘲りが混じる。ルフィヌスの胸のうちに、プロクルスの顔が浮かんだ。ビュザンティウムで彼が語った、蛮族にふさわしい養い方という一節である。
「では、こちらも尋ねねばなりますまい」
ルフィヌスは姿勢を正し、卓越えに相手を見据えた。
「クバード王は、ホスロー殿を我らの皇帝の子とする仕方を文で定めたいと求めてこられた。だが帝国は、そのような道を知らぬ。蛮族の子は、文書ではなく武器と鎧によって養子とされるものなのでしょう。蛮族にふさわしいやり方で」
ヒュパティウスがわずかに目を見張る。セオセスの顔から笑みが消えた。彼は隣のメボデスを見やり、短く言葉を交わす。
「帝国は、我らの王子をそのように語るのか」
セオセスは卓に手を置き、押し殺した声で言った。
「今の一言は、陛下とホスロー殿下への侮りと受け取ろう。和平の席で王家の名を傷つけるのだな」
「侮ったつもりはありません」
ルフィヌスは答える。
「こちらは、書き記された法によって帝位を定めております。そこへ他国の王子を加えよと求められた以上、その望みがいかなる結果を招くかを、はっきりと伝えねばならぬのです」
もはや、卓上の羊皮紙に書き足すべき言葉はなかった。互いの従者が進み出て、巻物や印璽を集める。幕の外では馬のいななきと鉄具の音が増し、これ以上の話し合いが無益であることを告げていた。
その日のうちに会談の幕は取り払われる。ローマの使節団は陣へ戻り、翌朝境を後にすることとなった。出立の支度をしていると、東の方角にペルシアの旗が動き始めたという報が届く。
「ニシビスから二日の道に、ホスロー殿の野営があると聞きました。和平が成れば、そこからビュザンティウムへ向かうはずであったと」
ルフィヌスはその方角に目をやった。見えるのはかすんだ地平であったが、若い王子の陣があり、今まさにこちらとは別の道を選んでいる。
「我らの言葉は、やがてあの方の耳にも届くのであろうな」
ヒュパティウスのひと言に、ルフィヌスはうなずいた。
「帝都へ戻って報を果たさねばなりません。今日交わされた文と、交わされずに終わった言葉のすべてを」
帝国の旗を掲げた列は踵を返し、境を離れていく。その背後には、和議を結び損ねた二つの国とホスローの影が重なっていた。




