03 養子
クテシフォンの王宮の柱の傍で、ペルシア王クバードは卓に広げた羊皮紙を見つめていた。
西方からの報せには、老皇帝アナスタシオスの死と、新皇帝ユスティヌスの即位が記されている。
「またとない刻よ」
王がつぶやくと、足音が近づいた。
「父上」
クバードの末子ホスローである。金糸を縫い込んだ外套の裾が石床をかすめた。
クバードは息子を見上げ、その眼差しに柔らかさと測るような色とを混ぜる。
「ザメスの名が、兵のあいだでますます高くなっていると聞く」
言葉の底には憂いがあった。
「片目で槍を執り、傷を負った兵の家のことまで気にかけておるのだ。民は心を寄せよう。王の坐を支えるものが何であるか、わしとて知っておる」
ホスローはひざまずき、顔を上げる。
「兄上は立派なお方です。けれど、王位は父上のお心次第」
クバードは首を振った。
「心ひとつで治まるほど、王の坐は軽くない。お前を後継と定めても、別の声を上げる貴族が現れよう。内だけを見ていては、玉坐は守れぬ」
王は別の文を引き寄せる。それには帝国との戦と、境の城砦の名が並んでいた。
「ユスティヌスは新たな政の手綱を固めねばならぬ立場にある。和平と引き換えに、わしはひとつの望みを差し出す」
ホスローの眉がわずかに動く。
「望みとは」
「血の結びつきよ」
クバードは言った。
「ユスティヌスに文を送り、帝国とペルシアのあいだに新たな縁を求める。わしの子ホスローをその養子とせよ、と」
ホスローは息を呑む。父は自分をどこまで押し上げようとしているのか。
「皇帝の養子となれば、王位を争う者どもは口実を失う。外では平和を保ち、内ではお前の名を揺るぎなきものとする。カオセスが古き法に守られておろうとも、ザメスがいかに誉れ高くとも、ふたつの家を継ぐ者に対しては、誰も表だって刃向かえまい」
老いた王の声には執念がにじんでいた。
「この策は、ご自身のためでもありましょうか」
ホスローは問う。
「お前が即く王坐が揺らげば、父の治世もまた弱きものと語られよう。わしはそれを許したくない」
クバードは立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「使節を選び、ローマの法と礼に通じた書記に文の形にさせる。戦とその原因のすべてを終わらせたい、と。互いの民に平穏を満たすため、縁で結ばれた和を求める、と」
ホスローはうなずく。
「父上の御心のままに。その道がいかなるものであれ、歩む覚悟はできております」
クバードは目を細めた。
「よいか、ホスロー。これは奇策にあらず。王家の血を守るための、最後の手立てよ」
夏の陽は王宮の奥まで差し込み、王とその子の影を並べている。
ほどなくして、ビュザンティウムの皇宮にペルシアからの書簡の報せが届いた。黄金の装飾をめぐらせた謁見の間で、ユスティヌス帝は封泥の施された文を受け取る。
「クバード王からにございます」
侍従が膝を折ると、ユスティヌスはうなずき、ゆるやかに封を切った。羊皮紙を広げると、精緻な文字が行を埋めている。戦の原因を忘れ、新たな血縁の結びつきにより二つの国の平和を満たしたいとの言葉が並んでいた。
「ホスローを、わしの養子にと申すか」
ユスティヌスは目を細める。そこには、ペルシアの王位を継ぐべき息子を皇帝の子とし、両国のあいだに血の橋を架けようとする思いが、丁重な文言をまとって記されていた。
やがて、皇帝は傍近くに控えていた甥を振り返る。
「ユスティニアヌスよ。この申し出、どう見る」
若き甥は一歩進み出た。紫の縁を持つ外套が床を払う。
「陛下にとって、これほど望ましい言葉は他にありますまい。戦を終え、ペルシアの王子を養子とし、法と血の絆で帝国を固めることができます。これは神が与えられた機会にございましょう」
皇帝は胸の前で文を持ち上げた。
「わしも同じ思いだ。老いたる身でこの坐を預かっているが、後の世に乱火を残すことはしたくない。ホスローを養子とすれば、東の境も西の都も、争いを避ける道が開けよう」
ユスティニアヌスは即坐に言葉を継ぐ。
「直ちに法務官と書記を呼び集めましょう。帝国の法が定めるところに従い、養子縁組と平和の条を文書にすべきです。クバード王の意を汲みつつ、帝国の威もまた示すことができます」
合図により、侍従が走った。皇帝の命はたちまち宮中に伝えられ、法に通じた役人たちが呼び集められる。机の上には白紙の羊皮紙が置かれ、インク壺とペンが並べられた。
ユスティヌスは玉坐から身を乗り出し、甥と向かい合う。
「この文は、お前の時代の始まりをも形づくるであろう。よく目を通し、将来に悔いを残さぬよう記さねばならぬ」
「陛下と共に、この一筆を未来への誓いといたしましょう」
ユスティニアヌスは深くうなずいた。
謁見の間に役人たちが集められ、皇帝の脇に財務官プロクルスが控える。
「陛下」
彼は深く一礼し、口を開いた。
「ペルシア王クバードからの申し出について、ひと言申し上げとうございます」
ユスティヌスは眉をわずかに上げる。
「申せ。そなたは金庫を預かる身であるが、政にも通じておる」
プロクルスは玉坐に近づき、慎重に言葉を選んだ。
「私は、新しい企てを好みませぬ。世に定まった順序が乱れるのを恐れております。ましてや帝位の継承に関わることを急に変えるのは、帝国の根を揺るがすことになりましょう」
ユスティニアヌスが一歩踏み出す。
「これは和平の策だ。ペルシアの王子を養子に迎えれば、争いは収まり、二つの王家は血で結ばれる。何がそれほど案じられる」
財務官は甥を正面から見据えた。
「将軍閣下。耳ざわりのよい言葉ほど、裏を見ねばなりませぬ。クバード王は帝国の庇護を求めてはおりませぬ。ホスロー殿を陛下の子とし、その名のもとに皇位を継がせようとしておるのでございます」
ざわめきが役人たちの列を走る。
「法は違えど、父の物は子に受け継がれるという道理は、どの民も同じでございます。帝国の者もペルシア人も、その点では争いませぬ。もし陛下がホスロー殿を子と認められれば、そのときから皇位の継承についての議論は変わりましょう」
ユスティヌスは手にしていた文を見下ろした。
「和平のために、いくらかの譲りはあってもよかろうと思うが」
プロクルスは首を振る。
「これはいくらかの譲りではございませぬ。友好と血縁の言葉に見えて、その実、帝位を受け取ろうとする道でございます。陛下がこの養子縁組に同意なされば、やがてホスロー殿はこう申すことになりましょう。父の遺産を継ぐのは子の務めであると」
彼は玉坐に向き直り、言葉に力をこめた。
「どうか帝国の最後の皇帝となられませぬよう。クバード王の策を受け入れることは、言葉をまとった帝位の譲渡にほかなりませぬ。将軍閣下も、己が帝位を得る道に自ら石を置かれてはなりません。最初の歩みを選べば、その先の道のすべてをも受け入れねばならぬのです」
ユスティニアヌスは視線を落とし、ユスティヌスは重い息をつく。
「プロクルス。そなたの言うところ、もっともである。この策に潜む先の禍まで、わしは見通してはおらなんだ」
彼は甥を見た。
「ユスティニアヌスよ。わしらは、自らの代で帝国を他国の血に渡すわけにはいかぬ。和平は求める。されど、帝位の継承に関わる縁組は退けねばならぬ」
ユスティニアヌスはうなずく。
「陛下のお考えに従います。クバード王には、和平の意思は変わらぬことを伝えつつ、養子の件については丁重に辞退するとお記しください」
こうして、ホスローを皇帝の子とする企ては宮廷で立ち消えた。
そのような策謀は、クテシフォンの人々には知り得ぬことである。彼らの耳に届いたのは、クバード王がまた西の帝国と妙な縁を結ぼうとしているという話ばかりであった。
訓練を終えたザメスが城門近くの回廊を歩いていると、その脇を槍を肩に負った兵たちの列が通り過ぎる。その一角で、若い兵たちが声をひそめた。
「聞いたか。王は帝国の皇帝と、新しい親子の約束を結ぶつもりらしいぞ」
「戦をやめる代わりに、ホスロー殿を向こうの子とするのだと」
ザメスの足が一瞬止まり、耳に届いた弟の名を胸の内で繰り返す。
王家の血をめぐる策が、遠い都の間で交わされていた。その渦の中に己の名もあることを、彼は知っている。




