02 巡閲
訓練所の砂地に槍を持った兵たちが列を作り、号令に合わせて足を踏み出す。足音と槍の柄が打つ音とが重なり、土の上に響いていた。
ザメスは柵の内側に立ち、その列を見渡す。左の眼で前方をとらえつつ、右にいる兵の動きは耳と肩で感じ取っていた。砂の揺れや甲冑の擦れる気配で構えの乱れを拾い上げるのは、長く身に沁みついた習いである。
傍には若い従者アーザードが立っていた。細身の槍を抱え、主が歩みを移すたびに半歩遅れてついてくる。
「三列目の右端」
ザメスは告げ、顎で合図した。
「盾が落ちている。槍を突き出す前に胸を守れ」
声をかけられた兵は、はっとして構えを改める。盾の縁が肩に密着し、槍先が列の中で揃った。
ザメスは進み出て、ひとりの槍を手に取る。柄を軽く振り、重さとしなりを確かめた。
「悪くない木だ。あとは持つ手の心だ」
そう言って槍を返すと、自ら一歩踏み込んで見せる。片足を砂に沈め、腰を落とし、肩と肘の角度を示した。兵たちは息を呑み、その動きを目に焼きつける。
「敵を貫くのは腕力ではない。列の揃いと足の運びだ。同じ歩みで進み、同じ刻に槍を出せば、前の敵はまとめて倒れる」
先頭の列の兵がうなずいた。多くは辺境の村から集められた若者である。王子自らが名も知らぬ兵の構えを正し、槍を手にして教えることは少ない。
アーザードはその横顔を見上げた。片目で全てを量ろうとする主の眼差しは鋭く、それでいて、兵の名を覚えようとする温かさを含んでいる。
「次は盾ごとの進退を試す」
ザメスは号令をかけた。
「合図とともに三歩前へ。槍を突き出し、一息で引け。乱れた列は、敵に隙を見せる列だ」
木槍が一斉に動き、砂がさらりと舞い上がる。ザメスは列の端から端へ歩きながら、足の踏み込みや肩の傾きを一人ひとり確かめた。右側に隠れた兵の姿は、砂の音と鎧の鳴りだけで見抜く。
「そこの者、足が開きすぎている。腰が浮いては槍に力が乗らぬ」
名を呼ばれた兵は、驚いたように背筋を伸ばした。ザメスが片目で前を向いているにもかかわらず、自分の乱れを見抜かれたことが、むしろ誇らしい。
幾度かの反復ののち、列の動きは揃っていく。槍先の高さは揃い、盾の縁が一つの板のように並んだ。額に汗をにじませながらも、兵たちの顔には、王子の前で恥をかくまいという気構えが宿っている。
「今日はここまでとする」
ザメスは最後にそう告げた。
「それぞれの隊長は、今見た癖を覚えておけ。よい兵は、数ではなく鍛え方で決まる」
返事の声が訓練所に響く。ザメスは軽くうなずき、踵を返した。アーザードがその後を追う。背後では槍と盾の音が続き、砂地には鍛錬の熱が残る。
そののちザメスは訓練所から道を折れ、軍の治療所へと向かった。汗の乾ききらぬ衣のまま、アーザードが小さな包みを数個抱えて後に続く。
土壁の建物が並び、入口には槍を短く持った番兵が立っていた。ザメスの姿を見ると、番兵は胸に手を当てて頭を垂れる。
「中の者たちの様子を見に来た。医師を呼んでくれ」
ほどなく、薬草の匂いをまとった老人が戸口に現れた。髭を胸に垂らし、王子に深く一礼する。
「いつもお心をかけて下さり、ありがたく存じます」
「礼は要らぬ。戦で血を流したのは、私ではなく彼らだ」
ザメスはそう答え、アーザードが老人に包みを渡す。干した果実と蜂蜜酒の壺が布の間からのぞいた。
「傷の重い者から分けてやってくれ」
ザメスは左肩をわずかに開き、足音と寝台の軋む気配に耳を澄ませる。
最初の部屋に、胸や腕を包帯で巻かれた若い兵がいた。ザメスが入ると、ひとりが慌てて身を起こそうとする。
「そのままでよい」
ザメスは近寄り、肩に手を置いた。
「深手と聞いたが、顔色は悪くない。よく耐えたな」
「ザメス殿下が前に立っておられたから、我らも退かずに済みました」
「退かなかったのは、お前たちの足だ」
ザメスが片目で傷口の具合を確かめてうなずくと、アーザードは横から干し葡萄を差し出して、それを兵の掌に載せる。
次の部屋には、片脚を失った壮年の兵が寝台の端に腰掛けていた。布の巻かれた切り口が敷き布の上にのぞいている。
「家には、誰が待っている」
ザメスが問うと、男はためらいがちに答えた。
「妻と子が畑を守っております」
「この国はお前の家を見捨てはせぬ」
ザメスはアーザードに目配せし、名と住まいを書き留めさせる。
「俸禄はこれまでどおり家に送らせる。城下でできる務めも探させよう」
男の目に光がにじみ、ザメスはその手を握った。
さらに奥の寝台から、掠れた声が漏れる。
「ザメス殿下が……わしらの王であれば」
老いた兵が天井を見つめたまま洩らした言葉であった。傍らの若者が慌てて口を塞ごうとする。
ザメスは一歩近づき老兵の顔を見下ろした。刻まれた皺と長年の務めを物語る瞳がそこにある。
「お前たちが命を懸けて守った国に、生まれたのが私だ」
彼はゆっくりと告げた。
「その務めに応えるのが、いまの私の役目だ」
老兵の掌に果物を握らせると、医師に湯を持たせるよう頼み部屋をあとにする。
いくつかの部屋を回り終えるころには、陽は中天にかかっていた。廊下を戻りながら、ザメスは書き留めさせた名を心の内で繰り返す。片目の視野は狭い。だがそこに映った顔と声を忘れぬようと刻みつけながら、彼は治療所の戸口をくぐった。
陽が西の山の端に沈むころになると、ザメスは軍務の執務所に入り、単衣の袖をひとつ折って卓に向かっていた。窓際には油を満たした灯がともされ、薄い炎が羊皮紙の端を照らす。傍らには、葦のペンと印章を手にしたアーザードが待っていた。
卓の上には、戦で倒れた兵の名が記された簿が広げられている。名の横には、家族の数と年格好、残された田地や家屋の有無が書き添えられていた。ザメスは左の眼でそれらを追い、右側に置かれた別の簿に視線を移す。そこには、軍から支払われるべき給付の定めが記されていた。
「この者は、子が三人とあるな」
ザメスは小さくつぶやき、ペンを取る。
「定めの銀に、穀を二倍添えよ。子が働きに出る年までは、畑を人に貸すよりほかに術もあるまい」
簿の上の文字に一つの家の命運が重なって見えた。
別の行に目をやると、その横には老いた親と妻の名が記されている。ザメスはしばし考え、今度は自らの財を記す欄にペンを入れた。
「この家には、私の屋敷から布を送らせよ。寒さに耐えられぬ年寄りを、薄い衣で冬に渡らせるわけにはいかぬ」
アーザードが驚いたように主の顔を見る。ザメスは気づいて笑みを浮かべた。
「王家の名を負う者が、兵の血で守られた屋根の温かさを惜しんでどうする。明日の遠征で必要な銀は残してある」
書きつけられた行がひとつ増えるごとに、灯の火は短くなっていく。簿を繰る指先には、昼に治療所で目にした顔がいくつもよみがえっていた。胸に傷を負った若者、脚を失った兵、声をかすれさせた老いの兵。その背後に、それぞれの家の炉と卓とが見える。
「ここに名のある者らはみな、父の旗の下で戦った兵だ。彼らの家を守る務めは、王家が担うべきもの。ならば、その一部を私が負うのは当然だ」
玉坐に坐り得ぬ片目の王子は、別の形で王の務めを果たそうとしていた。
夜も更け、執務所の外の足音が途絶えていく。ザメスは最後の簿を閉じ、灯の芯を短く切らせた。炎がひときわ明るさを増し、やがて穏やかな揺れに戻る。
「本日の裁可はこれで終わりだ。明朝、軍務を預かる役人に渡してくれ」
ザメスが言うと、アーザードは深く頭を下げた。




