01 兄弟
馬場の砂地を二頭の馬が円を描いて駆けていた。たてがみが風に翻り蹄が乾いた土を叩くたび、細かな砂が弧を上げる。見張り台の傍には騎兵たちが立ち並び、王城の高みからは色褪せぬ紺の旗がのぞいていた。
先を走る栗毛の馬の鞍には、ペルシアの王太子カオセスが跨っている。細身の弓を左手に持ち、右手で矢を番え、身をひねった。馬の腹には手を触れず、膝と腰を頼りに脚を御しながら、遠くに立てられた的へと狙いを定める。
弦が鳴り、矢が真っ直ぐに飛んだ。円板の端を白くかすめ、乾いた音を立てて刺さる。見ていた兵のひとりが小さく息を洩らした。
その後ろから、黒鹿毛の馬が追う。鞍に乗るのはカオセスの弟ザメスであった。右の眼窩には古い傷が走り、その下で閉じられた瞼は動かぬ。残る片方の眼は、遠くの的と馬の足もととを一度に捉え、揺れることがなかった。
ザメスは弓を高く掲げ、馬の進む輪から半身を外に倒す。脚は鞍を離れわずかに空を切った。脇腹へ矢筒が当たる音がして、次の瞬間、弦の音が馬場に響く。
矢は風を裂き、的の中央へと深く吸い込まれた。板の裏側へ貫いた矢じりが陽を受けて煌めく。見張り台のあたりで歓声が上がった。
二頭の馬はなお駆け続けた。カオセスが顔をそむけるようにして次の矢を番える間にも、ザメスの矢は立て続けに円板の心を射抜いていく。馬の脚どりも弓を操る手つきも、長い鍛錬を積んだ武人のそれであった。
合図の旗が振られる。王子たちは徐々に速度を落として馬を止めると、同じ砂の上へと降り立った。肩で息をしながらも、ザメスの胸には汗より先に弦の感触と矢の手応えが残る。
矢を抜きに走った兵が的の板を改めた。円板の中央に深く刻まれた矢孔の並びが、誰の腕がより確かであったかを雄弁に物語っている。カオセスはちらとそれを見遣り、すぐに視線を外した。陽を受けた額ににじむ汗を、手の甲で荒く拭う。
二人の馬が厩舎の方へ引かれていくあいだに、従者が水を盆に運んできた。砂にまみれた手をすすぎ、弓を従者に受け取らせると、カオセスとザメスは馬場の縁に並んで腰を下ろす。柵越しでは、さきほど矢を抜き終えた兵たちが板を運んでいた。
しばらく互いの荒い呼吸の音だけが続く。やがてカオセスは盆の水面を見つめたまま口を開いた。
「父上は、近ごろホスローばかりを連れておられる」
ザメスはその横顔を見る。弟の名を出すときの兄の声には、棘に似たものが混じっていた。
「朝の政務にも、午後の謁見にも必ずあれを脇に立たせておられる。軍の報告を受ける時でさえだ。私がその場に呼ばれることは、年に何度あるか」
「しかし、王位は法律によって兄上と定められております」
ザメスは穏やかに言う。
「年長の男子が王坐を継ぐのが、この国のならわし。ホスローがいかに寵を受けても、そのことは変わりませぬ」
カオセスは短く笑った。笑みと呼ぶには冷たい色が濃い。
「父が私を嫌っていることは、お前も知っていよう。儀礼の場では言葉を交わしても、目は決してこちらを見ぬ。王冠を継ぐべき者として名を連ねていながら、この扱いだ」
指先が盆の縁をとんとんと叩く。
「お前は片目ゆえに王にはなれぬ。法がそう定めている。だがホスローは違う。あれは両の手足もそろっているし、顔つきも母に似て柔らかい。父の望みどおりの息子だ」
ザメスは言葉を選んだ。
「父上も、兄上をお嫌いなのではありますまい。ただ、ホスローは年若く、傍に置いておきたいのでしょう。私など宮中の行事に顔を出すことはさらに少ないのですから」
「慰めは要らぬ」
カオセスは肩をすくめる。
「お前だって本心では分かっていよう。父の心がどこを向いているかを」
視線が横に滑り、ザメスの胸を射抜いた。
「お前は父上に取り入ろうとした。息子にクバードと名をつけてまでな。それでも父上は、一度でもその子の名をお呼びになったか。膝に乗せたか。孫として抱かれたことがあるか」
ザメスは答えず、掌を組む。遠くで馬を洗う水の音がした。
「ホスローだけが可愛いのだ」
カオセスは吐き捨てるように言う。
「我らは王宮の簿に名が書かれているから、仕方なく置かれているにすぎぬ」
立ち上がり砂を払う手つきも荒い。彼は近くに控えていた従者に合図し、再び馬を引かせた。鞍に跨がると、ザメスの方を振り向きもせず、手綱を打って馬場の外へと駆け出していく。
二人分の足跡は砂に残り、馬場の端から端へ、円を描くように続いていた。風が吹くと、蹄に踏み砕かれた砂粒がわずかに舞い上がる。さきほどまで人声のしていた一角も、いまは馬を洗う水の音と遠くの号令の響きが時おり耳に届くばかりであった。
ザメスはしばらく立ち尽くしていたが、やがて柵に手をかけ、深く息を吐く。胸の内には兄の言葉がまだ残っていた。父が誰を見て、誰を見ようとしないのか。そのことは幼いころからうすうす感じてきた。だが口に出して聞かされると、矢よりも鋭く心に刺さる。
自らの子にクバードと名を与えた日のことを思い返す。名を継がせれば父が一度くらいは孫の顔を見ようとするのではないかと、淡い望みもあった。だがそれは叶わなかった。名を告げる使いを出しても、宮廷から返ってきたのは礼の文一通きりである。
それでも、その子を悔やんだことはない。片目となった身に王坐は無縁であっても、剣と弓とを息子に託す。そしていつか息子がこの国のために立つ男となることを願った。
カオセスは学問にも通じ、政の理にも明るい。兵を率いる術を身につければ、良き王となろう。その資質を知っているからこそ、父の冷たい仕打ちが兄の心をすり減らしていることが惜しかった。王家のうちで心が割れれば、そのひびはいつか国土に及ぶ。
息子クバードはいま、国境の将アデルグドゥンバデスの元に預けている。険しい山道と荒れた草原を見て育つであろう。剣の扱いも騎兵の指揮も、王城の庭では身につかぬことばかりだ。あの将のもとならば、厳しさの中にも道理を教えてもらえる。そう思うと、遠く離れていることもむしろ恵みのように思われた。
ザメスは顔を上げた。片方の視野に、馬場の上の空が広がる。夏の陽差しは強いが、その光の先には、まだ見ぬ戦場とそこへ向かう息子の背が重なって見えた。父王の寵の有無とは別に、自分の手で守り育てるべきものがある。それを思うと、心のうちに固い芯が据わる。
「クバード」
唇からこぼれた名は、誰に聞かせるでもなく砂の上に落ちた。ザメスは柵から手を離し、足もとを踏みしめる。父が孫を抱かずとも、我が身が抱けばよい。
そう思いながら、ザメスはかすかに笑みを浮かべた。片目に映る世界は狭い。だがその視野にも、守るべきものと進むべき道とははっきりと見えている。




