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09 待望

 早朝、王宮の広間には早くも人の列が出来ていた。文書を抱えた書記官、地方から呼び出された役人、武具を帯びた将兵らが、胸に鬱屈を抱えたまま順番を待っている。昨日は税の納め方、今日は兵の召し集め方と、掲げられる板札が変わるたび、下につながる役所と辺境の陣営では指示を確かめ合う声が交錯する。


 そのあいだをザメスが歩いていた。かつて戦場で軍を束ねた男は、いまは言葉と印章をもって乱れかけた政の列を立て直そうとしている。各地の報告に目を通し、矛盾する命令の前後を量り、互いに食い違わぬよう筋を通すのが、ここしばらくの日課となっていた。


 「この布告は前の命に従わせよ。期日のみを改める」


 ザメスが告げると、書記官はほっとしたように息を吐いて板札の文言を書き直す。兵の配置を預かる者には、別の一行を添えて渡した。


 「北の守りを弱めてはならぬ。王都への道が開けば、敵も好機と見る」


 言葉の裏には長く戦に身を置いた者の計算がある。感情のままに命令を重ねれば、いずれ穴があく。その穴をふさぐ役を自ら引き受けているのだと、ザメスは心得ていた。


 評議の場でも、彼は一歩退いたところに坐し、諸侯と王命のあいだに橋を架ける。新たな制の案が読み上げられるたび、顔をしかめる者、うつむく者がいる。その視線を受け止めながら、ザメスは言葉を選んだ。


 「急な改めは、民の心を乱します。まずは今ある決まりを行き渡らせ、その上で次の策を重ねるのがよろしいかと存じます」


 直接に異を唱えるのではない。だが、過ぎた命令が兵と民を疲れさせることを、遠回しに諫める。王の側近として立つ者たちは、その意を汲み取り、勅令の文から尖った一節をそっと削った。


 こうして幾つもの場で手を入れ続けていなければ、この国はとっくに綻びを見せていたであろう。ザメスはそれを知りながら、冠を戴くのは王であり、自分はその足場を崩さぬよう支える柱の一本に過ぎぬと心に定めていた。


 陽が傾きかけたころになって、ようやくザメスは執務の間を離れ、回廊の端で人心地つく。城門の方角には兵の隊列が見え、その向こうには、遠い辺境へ続く道が霞んでいた。視線はそこにとどまったまま、彼の胸裏には別の土地の景色が浮かぶ。


 遠き国境のカナランに託した息子、幼いクバードの姿が砂の匂いとともに立ち上った。


 都の騒がしさから遠く離れた砦で、クバードは今、どのように剣を学び、馬を操っているだろうか。額に汗をにじませ、叱責を受けながらも歯を食いしばっている姿を思い描くと、口元にかすかな笑みが浮かぶ。


 いずれあの子は王都へ戻る。戦場で前列に立ち、民のために剣を振るう器に育てねばならぬ。ザメスはそう心に刻みつつ、欄干に置いた手に力をこめた。


 父祖から受け継いだ名をあの子は背負っている。クバードの名はひとつの旗であり、同時に重い荷でもある。その荷を押しつぶすのではなく、背筋を伸ばす重みへと変えるのが、自分の務めにほかならぬと、ザメスは思った。


 この国が揺らげば、息子の行く末もまた定まらぬものとなる。ゆえに守るべきは、目の前の政だけではない。遠い砦で汗を流す子の未来であり、その子らが立つであろう時代の地平であった。ザメスは夕映えの空を仰ぎ、ホスローの治世とペルシアの明日とを、ひとつながりのものとして胸の内に据え直す。


 王都に集う貴族たちは、近ごろ同じ広間に顔をそろえることが多くなっていた。評議の後、あるいは朝の謁見の前、帷の陰に人影が寄り合う。声は抑えられていたが、どの顔にも疲れと苛立ちがあった。


 「このままでは国がもたぬ」


 白髪交じりの老侯が、口ひげをなでながら言う。


 「勅令は日毎に改まり、辺境からは不服と困惑の報せが続いておる。ホスロー王は志こそ高いが、政の歩を急ぎすぎられる」


 別の男がうなずいた。


 「このままでは、いずれ帝国にもフン族にも隙を見せる」


 輪の一角から声が洩れる。


 「ならば、先王の血筋から他の王を立てるほかあるまい」


 言葉が帷の内を走り、何人かが息を呑んだ。だが、胸の内で同じ思いを育てていた者は少なくはない。


 「名を挙げるならば、まずはザメス殿下であろう」


 戦場での武名と、近ごろの政務で示した器量を思えば、その名が最初に上るのは当然である。クバード王の子としての血筋も申し分ない。


 しかし、別の貴族が首を横に振った。


 「ならぬ。ペルシアの法は、身体に損いある者を王とすることを許しておらぬ。片目を失ったザメス殿下を推せば、我ら自らが法を踏みにじることになる」

 「法を改める道は」

 「今は難しい。いま王を退け、条文を書き換えれば、誰のための仕業かは明らかになる。諸州も軍も、素直には従うまい」


 沈黙が落ちる。やがて、最初に口火を切った男が、再び言葉を継いだ。


 「ザメス殿下のお子こそがふさわしい。祖父と同じクバードの名を持つ若木だ。名は民の心を引き寄せる。王坐に据えるなら、あの方を推すべきであろう」

 「幼き王をいただき、その後見としてザメス殿下に国をお預けする、というわけか」


 問い返した声には、策の筋を量る響きがある。武と徳を兼ね備えた父を背にした若き王。その姿を胸に描いた者たちの視線が交わった。


 「ザメス殿下ならば、身の上からして冠を求められまい。されど、国を保つためとあらば、子の背を支える役は引き受けてくださるはずだ」


 誰かがそうつぶやくと、広間の空気がわずかに動く。王を替えるという大事、その重さを知りながらも、他に手立ての見えぬ現実があった。輪の中の者たちは互いの顔を見やり、小さくうなずき合う。


 こうして、一つの思惑が形を取り始めたのである。


 幾日かののち、王宮の一隅に設けられた一間で、カオセスは肘掛に身を沈めていた。向かいには、ホスローの伯父にあたる老将アスペベデスが坐している。


 戸口には数人の貴族が並び、年長の侯が前へ進み出て礼をとった。


 「王兄殿下、アスペベデス殿。ペルシアの行く末について、お二方にのみお伝えしたき儀がございます」


 カオセスは片眉を上げる。


 「佩剣も抜かずに、その顔つきか。面白そうだ。申してみよ」


 侯は一瞬ためらったが、意を決して口を開いた。


 「ホスロー陛下の御治世は、志はあれど勅令が日ごとに改まり、諸州も軍も惑っております。このままでは、王家の御名が損なわれましょう。そこで我らは、王家から別の王をお立てする道を考えました」


 アスペベデスの目が細くなる。


 「別の王とは、誰を指す」

 「ザメス殿下のお名も挙がりました。しかし、法は身体に損いある者を王としておりませぬ。そこで、先王と同じ御名を持つ、ザメス殿下の御子クバード様こそふさわしいと存じます。幼き王をいただき、その後見をザメス殿下にお任せする。王家の血も名も、その形ならば守れましょう」


 言葉を継ぐごとに、貴族たちの背筋が強張った。王家の者の一言が、この策を生かすか殺すかを決める。


 カオセスはふっと笑った。


 「なるほど。父の遺文ひとつで王坐を失った兄の前へ来て、今度は弟の王坐を甥に移せと申すか。歌い手が聞いたら、さぞ喜ぼう」


 その声音には、怒号よりも先に興が浮かんでいる。自らの運命を横から眺める者のような調子であった。


 「殿下、この策はホスロー陛下を貶めるためのものではございません」


 侯が言葉を継ぐ。


 「家名を地に落とさぬためにございます。ザメス殿下は御子を支え、国を保とうとなさるでしょう」


 アスペベデスは甥の横顔をうかがった。


 「殿下。家のために、どの道が良いかを量る刻かもしれませぬ」


 カオセスはしばし視線を宙に泳がせたのち、肩をすくめる。


 「よいではないか。法にすがった長子は退き、父に愛された末子が王となり、さらに次子の子が冠を戴く。物語としては上出来だ。私が止めよと叫んだところで、誰が耳を貸す」


 口元には笑みが浮かんでいるが、その奥には自らを突き放した影が宿っていた。


 「ひとつだけ覚えておけ」


 カオセスは貴族たちを見渡す。


 「この策は、そなたらの口から生まれたものだ。私は評議の場で敗れた王太子にすぎぬ。裏から手綱を引く役は、似合わぬと知っている」


 そう言いながらも、声に否定の色は薄い。むしろ、世の成り行きを眺めて笑う者の響きであった。


 アスペベデスはゆるく息を吐き、貴族らに向き直る。


 「私も、ホスロー陛下の伯父として、この話を聞かなかったことには出来ぬ。家の名と国の行く末のためとあらば、ザメス殿下とその御子が柱となる道も、ひとつの定めであろう」


 そう告げてから、彼は甥の顔を見た。カオセスは椅子の背にもたれたまま、口の端をわずかにつり上げる。


 「さあ、どうする。伯父上」


 問うようなその視線に、アスペベデスはうなずいた。カオセスもまた、半ば投げやりな仕草でうなずきを返す。


 伯父と甥、二つのうなずきが重なったのを見届けると、貴族たちは一斉に頭を垂れた。ザメスと若きクバードをめぐる思惑は、こうして王族の門を越え、次の段へと進み始めたのである。


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