4話後編:『「本当に終わる二人は、もっと静かだよ」――壊れかけた関係を、サトシとタカシが両側から引き戻す』
同じ夜。リョウが感情を爆発させて家を飛び出した後の、静まり返ったアパートの一室。
リビングのテーブルには、途中で食べるのをやめてしまった夕食がそのまま残されていた。すっかり冷めきって表面に膜が張った味噌汁、手をつけられなかったおかず。
二人がぶつけ合った言い合いの熱量だけが、重苦しく部屋の空気に残っている。
ユイはソファの端に体育座りをしたまま、微動だにできずにいた。
スマートフォンを何度も見つめても、通知は一切ない。
メッセージを送ろうとして、指が止まる。謝罪の文章を打っては、違う、と消す。
――もう終わりだ。
リョウが最後に放った、あの冷たい言葉だけが、暗い部屋の天井をぐるぐると回っていた。本当はそんなこと思っていないと信じたいのに、時間が経つにつれて不安が黒く膨れ上がっていく。
その時、静寂を破って、ピンポーンとインターホンが鳴った。
恐る恐るユイが扉を開けると、そこには心配そうな顔をしたアカネが立っていた。
「ユイちゃん……」
同じ街に住む、数少ない本音を話せる友人の顔を見た瞬間、ユイの限界まで張り詰め、止まりかけていた呼吸が、小さく解けた。
「とりあえず、一回外に出よう。頭冷やした方がいい」
アカネは優しい強引さで、ユイの上着を掴んで連れ出した。
夜の雨が静かに降り注ぐ街を歩き、向かった先は、商店街の路地裏にある、古びた築四十年のアパートだった。
「サトシさん、夜遅くにごめんなさい。ちょっといいですか?」
「ん、おかえり」
古い引き戸を開けると、エプロン姿のサトシが、小さなコンロの上で小鍋を静かにかき混ぜていた。部屋の中には、少しスパイスの効いた、けれどどこか安心する家庭的なカレーの匂いが漂っている。
サトシはユイの強張った顔と、濡れた睫毛を見るなり、すべてを察したように静かに目を細めた。
「ケンカか?」
ユイは小さく、消え入りそうな声で頷く。
「……彼が、出ていっちゃって。もう終わりだって言われました」
サトシはそれ以上、何も聞かなかった。
何が原因で揉めたのか、どちらが悪いのか、別れるべきなのか。普通の大人なら口にするような言葉を、何一つ言わず、誰のことも裁こうとしない。
ただ、当然のように、湯気の立つ温かいほうじ茶の紙コップをユイの手元へ差し出した。
「これ、飲みな。あったかいから」
その一言だけだった。
しばらくの間、古い柱時計の音と、窓を叩く雨の音だけが響く沈黙が続いた。アカネは何も言わず、ただユイの隣にぴったりと寄り添って、冷たい手を握っている。
やがて、ユイがほうじ茶の湯気を見つめたまま、小さく呟いた。
「……私、重かったのかな。仕事で疲れてるの分かってたのに、自分の寂しさばっかりぶつけて。だから、嫌われちゃったのかな」
サトシは何も言わず、自分の煙草に火をつける。チッと小さな音がして、オレンジ色の小さな火が、薄暗い部屋を微かに灯す。ゆっくりと紫煙を天井へ吐き出しながら、サトシは低い声で言った。
「どっちも、余裕がなかっただけじゃない? 一緒に暮らすってさ、好きっていう気持ちだけで全部が丸く回る時期は、いつか終わるからね。お互いが仕事や何やで疲れてる時に、相手に優しくするのって、案外もの凄く体力がいるんだよ」
ユイは膝に顔を埋めるようにして俯いた。
「でもさ。本当にすべてを終わらせたい人間って、もっと静かだよ。何も言わずに荷物をまとめるとかさ。勢いで怒鳴って飛び出すっていうのは、まだ相手に対して感情が、エネルギーがあるからだよ」
ユイがはっと顔を上げた。サトシは煙草を持つ手を緩やかに揺らしながら、言葉を続ける。
「だからさ、今は答えを急がなくていいんじゃない? お互いに、ちゃんと頭が冷えるまで。ここでゆっくり、息をしていればいいよ」
急かさない声。何かを決めつけない、ただ傷ついたままそこにいることを許してくれる空気。
それが今のユイには、何よりの救いだった。張り詰めていた肩の力が、すうっと抜けていく。
午前四時を回った頃。ユイはすっかり温くなったお茶を飲み干すと、小さく、けれど深く息を吐き出した。その目には、先ほどまでの絶望ではなく、確かな光が戻っていた。
「……帰ります」
隣にいたアカネが、少し驚いたように顔を覗き込む。
「ユイちゃん、もう大丈夫?」
ユイはゆっくりと、力強く頷いた。
「まだ、ちゃんと怒ってるし、傷ついたし、すぐに笑顔で許せるかは分からないです。でも……」
ユイはアパートの窓の外、少しずつ白んでいく夜空を見つめた。
「……あの人、ちゃんと帰ってくる気がするから。だから、私も部屋で待ちます」
サトシは灰皿に煙草の吸殻を押し潰し、小さく笑った。
「うん。それがいい」
それだけだった。無理に仲直りを応援もしないし、未来を保証もしない。ただ、ユイが自分で悩んで辿り着いた答えを、静かに、全肯定するように見守る。
帰り際、サトシは玄関の引き戸に手をかけたユイの背中に、煙草を咥えたまま声をかけた。
「もし、朝まで帰ってこなかったら、またいつでも来ればいいからね」
ユイは少しだけ、今夜初めての綺麗な笑顔を見せた。
「はい。サトシさん、ありがとうございました」
アカネにアパートの前まで送られながら、ユイは再び夜明けの街を歩いていく。
指示。静まりかえった、まだ少し散らかった自分たちの部屋へ戻ると、ユイは静かに動き出した。テーブルの上に残った冷めた味噌汁を流しに捨て、汚れた食器を丁寧に洗い、テーブルを綺麗に拭く。
胸の奥は、まだ少しチクチクと痛む。物理的、不思議とさっきよりずっと深く呼吸ができていた。
その時、静かなアパートの外の階段から、何だかガサゴソと騒がしい音が聞こえてきた。
「リョウ、プリン持ったか? うちのミサキがそうだから分かるんだけど、女の人は甘い物食うとちょっと落ち着くんだよ。俺はいつもそうしてる。ほら、ちゃんとスライディングの準備しとけよ」
「だから、ついて来んなって言っただろタカシさん!! 声がデカいんだよ!!」
がさつで、やけに温かい男の声が響いてくる。
サトシという男は、傷ついた人間を無理に前へ引っ張らない。立ち直れとも言わないし、忘れろとも言わない。
ただ、感情が嵐みたいに暴れている夜に、誰かが自分自身を見失ってしまわないよう、静かな避難所の灯りをただ灯し続けている。
傷ついたままでいい。答えが出なくてもいい。今すぐ許せなくてもいい。
誰もそんな名前では呼ばない。
けれど、この古びたアパートの雨音の向こうに広がる、一切のノイズを削ぎ落とした静かな空気。
壊れかけた関係の前で、感情に呑まれそうになった人間が、自分の本当の気持ちを取り戻すまで、ただ静かに呼吸を整えられる場所。
それこそが、帰る場所を見失った迷子たちの夜をそっと受け止める、サトシの静寂のエデンだった。
アパートのドアの鍵が、静かにガチャリと回る音がした。




