4話前編:『「もう終わりでいいだろ」と彼女を傷つけて逃げ出した夜、河川敷で「帰りたいんだろ?」と胸ぐらを掴まれる』
午前三時。街のきらびやかなネオンも消えかけた、静まり返った河川敷のベンチに、一人の男が所在なげに座っていた。
足元には、ぬるくなった缶ビールが一本と、コンビニの薄いビニール袋。
手元のスマートフォンには、途中で文字を打ったまま、送れずに閉じられたメッセージ画面が冷たく光っている。
――もう終わりだ。
数時間前、自分の部屋で、勢い任せに吐き捨てたはずの言葉が、頭の中で何度も何度も嫌な音を立てて反響していた。
男の名前はリョウ。二十七歳。平日は泥のように働く営業職だった。
恋人のユイとは、付き合って三年、この街の小さなアパートで同棲していた。
ケンカの理由なんて、今思えば本当にくだらないものだった。
日々の仕事のストレス。少しずつ積み重なっていた生活のズレ。言葉にしなくても自分の疲労を分かってほしいという、甘えの混じった期待。
そんなものが澱のように溜まった果てに、リョウは感情の勢いのまま、一番言ってはいけない言葉を叩きつけた。
「もう終わりでいいだろ」
本当は、終わらせたかったわけじゃない。
ただ、苦しくて、心の余裕がなくて、自分の言葉のブレーキが効かなかっただけだった。
けれど、ユイの傷ついた顔を見て、弾かれたように家を飛び出した瞬間、リョウは冷たい夜風の中で激しい後悔に襲われていた。
――やべぇこと言った。
けれど、今さらどの面を下げて戻ればいいのか分からない。格好悪すぎるし、ユイに完全に拒絶されるのが死ぬほど怖かった。
リョウが深く顔を覆い、溜め息を吐き出した、その時だった。
「兄ちゃん、めちゃくちゃ終わった顔してんな!!」
静かな河川敷の空気を震わせる、爆音みたいな声が飛んできた。
リョウが驚いて顔を上げると、そこにはグレーのスウェット姿のバカデカい大男が、缶コーヒーを片手に仁王立ちしていた。
タカシだった。
「いやマジで!! その顔、絶対に言わなくていいこと言った後の顔っすよ!! 職場でやらかしたか、女にキレたかの二択だな!!」
「……誰だよ、あんた。関係ないだろ」
リョウはうんざりしたように顔を背け、缶ビールを煽った。
「放っといてください」
「無理無理。そういう顔してる人間、俺、放っとけないんで」
タカシは一ミリの遠慮もなく、勝手にベンチの隣へ腰掛けた。距離感が近い。肩が触れそうなほど近すぎる。
「彼女とケンカ?」
リョウは答えず、黙って地面の草を睨みつけた。だが、その頑なな態度自体が、何よりの肯定だった。
「別れた?」
「……分かんないっすよ」
リョウは自嘲気味に、吐き捨てるように笑う。
「もう、あんなこと言ったら今さら帰れないし。終わりですよ」
すると、タカシは真顔になって、本当に不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「は?」
「だって兄ちゃん、帰りたいんだろ?」
その瞬間。リョウは言葉を失った。
あまりにも真っ直ぐに核心を突かれて、喉の奥が詰まる。
本当に終わらせたいなら、こんな寒々しい場所で何時間も立ち止まっているはずがない。本当に嫌いになって、関係を切り捨てたつもりなら、今ごろ一人になった解放感でせいせいしているはずだった。
便所。現実のリョウの頭の中は、最初からずっとユイのことばかりだった。
泣いていないか。怒っているか。もう、愛想を尽かして荷物をまとめてたりしないか。
頭のてっぺんから爪先まで、全部ユイのことで埋め尽くされている。
「兄ちゃんさ、多分、終わりにしたいんじゃなくて、自分のしんどさを分かってほしかっただけだろ」
夜風が川面を揺らし、さざ波の音が響く。タカシはプルタブを開けた缶コーヒーを、リョウの冷え切った手に無理やり握らせた。
「人間、余裕なくなるとさ。助けて、って言えなくて、もういい、って言っちゃう時あるよな」
リョウは俯いた。缶コーヒーの熱が、じわじわと指先に染みていく。
ユイは何も悪くなかった。いつも自分の遅い帰りを待ち、体調を気遣ってくれていた。それ Savageに、自分は一番甘えていいはずの相手を、言葉の刃で傷つけたのだ。
「……でも、もし、もう本当に愛想尽かされて、終わってたら」
「そん時は、死ぬほど落ち込んで大泣きすればいいじゃん」
タカシはあっけらかんと、まるで世界の終わりなど存在しないかのように言った。
「でもさ、お互いの気持ちを確かめもしないで、ビビって逃げたまんまにするの、それが一番ダサくない?」
リョウは何も返せなかった。
この目の前の大男には、空気というものが読めないし、大人としての遠慮も一切ない。けれど、だからこそ、自分が張り巡らせていた「プライド」という名の言い訳を、綺麗に剥ぎ取られてしまう。
「……帰りづれぇよ」
リョウが小さく溢すと、タカシは嬉しくそうに立ち上がった。
「じゃあ俺も行く!!」
「は? なんでだよ」
「一人だとアパートの前でビビるだろ? ドアの前で三十分くらいグルグル歩き回るタイプじゃん、兄ちゃん」
完全に図星だった。リョウはぐうの音も出ず、ただ天を仰いだ。
夜空の端が、少しずつ薄紫から白へと変わり始める。
静まり返った商店街のアーケードに、遠くで新聞配達のバイクの音がパタパタと響き始めていた。
「……やっぱ、もうちょい明るくなって、時間を置いた方がいいんじゃ」
アパートが近づくにつれ、リョウの歩みが目に見えて遅くなる。
するとタカシは即座に振り返り、大きく首を振った。
「ダメダメ!! 兄ちゃん、ここで時間置いたら絶対そのまま実家とかに逃げる!!」
「逃げねぇよ……」
「逃げる顔してる!!」
タカシはさっきコンビニで買った半額のおにぎり袋をぶんぶんとぶら下げながら、ずんずんと前を歩いていく。
「だいたいさ!! 本当に終わるカップルって、もっと静かだと思うんすよ。何も言わなくなって、スーッといなくなる。兄ちゃんら、まだ全然お互いの感情がグチャグチャじゃん!!」
「グチャグチャってなんだよ、失礼な……」
「好きだからケンカしてんだろ!! どうでもいい奴相手に、そんなエネルギー使わねぇよ」
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも乱暴な、子供みたいな理屈だった。
でも、その雑で圧倒的な熱量が、冷え切って動けなくなっていたリョウの足を、少しずつ、けれど確実に前へと動かしていく。
リョウは苦笑しながら尋ねた。
「ちなみに、タカシさんなら、そういう時なんて声かけます?」
「俺? 俺ならドア開けた直後に五体投地のスライディング土下座かな!!」
「……全然参考になんねぇわ」
「いやマジだって!! うちのミサキはおっかねぇんだから、スピードと誠意が命なんだよ!!」
タカシという男は、他人の境界線へ、いつでも土足で飛び込んでくる。
格好悪くて、怖くて、自分でも認めたくない泥泥した本音を、強引に表へと引きずり出してくる。それは、目の前の人間が、本当に大切なものを、自分の弱さのせいで諦めてしまわないためだった。自分自身の体温を削ってでも、迷子の背中を大切な場所へと押し戻す。
誰もそんな名前では呼ばない。
けれど、このバカ犬みたいな男が強引に巻き起こす理屈抜きの熱量と、逃げ腰になった人間をもう一度だけ引き戻す強引な優しさ。
それこそが、壊れかけた関係の前で立ち尽くす迷子たちを、帰りたいという本音へ無理やり連れ戻すための、眩しくて温かいタカシの熱気のエデンだった。
リョウは深く息を吐き、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……マジでアパートの階段の下までですよ」
「おう!! 絶対まだ終わってねぇからな!!」
そう言って笑うタカシの後ろを、リョウは少しだけ歩幅を広げて歩き出した。
夜明け前の、静かな、けれどどこか温かい商店街の道を。




