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「ちゃんとしなきゃ」と息を止めているあなたを、100%全肯定する深夜アパートの話  作者: チャラン・ポラン


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3話後編:『空っぽのままで、傷ついたままでいい。サトシが教えてくれた、息を吸うための「静寂のエデン」』

深夜零時。商店街の片隅にある築四十年の古いアパート。

サトシは煙草を咥えながら、コンロの上の鍋の火を弱めていた。部屋の中には、少しスパイスの効いた家庭的なカレーの匂いが広がっている。

窓の外では、静かに雨が降り始めていた。静かな、他人の気配が遮断された夜だった。

その時、ガタガタと古い引き戸が静かに開いた。

「サトシさん、ちょっといいですか?」

入ってきたのはアカネだった。以前、失恋の重みで心が壊れかけ、この部屋でようやく涙を流すことができた女。

その後ろに、一人の若い女が立っている。髪は少し濡れ、表情は強張っていた。壊れそうなくらい張り詰めた空気を纏ったその少女――ミノリは、夜の街を彷徨う中、唯一心当たりのあった信頼できる友人、アカネの元へと直接逃げ込み、それを受け止めたアカネがここへ連れてきたのだった。

「夜遅くに、申し訳ありません。こんばんは……」

小さく、けれど丁寧すぎるほど丁寧なお辞儀。

サトシは咥えていた煙草の灰を落とし、一瞬でその少女の輪郭を理解した。

他人に迷惑をかけないよう、息を潜めて必死に小さくなっている姿。

――ああ、この子、もう限界近いな。



「入んな。寒かったろ」

サトシはそれ以上、何も聞かなかった。

どうして家を出てきたのか。何があったのか。理由も聞かないし、説明も求めない。ただ、当然のように引き戸を広く開け放った。

それだけで、ミノリは少し驚いたような顔をした。今まで彼女の周囲にいた大人は、誰も彼もが理由と正論を求めてきたからだ。

アカネが手際よくクローゼットから毛布を出して、ミノリの肩にかける。

サトシは小さなガスコンロでお湯を沸かし、紙コップにインスタントコーヒーを注いだ。

「甘いの平気? 砂糖多めに入れといたから」

「……はい。ありがとうございます」

ミノリは両手で包み込むようにコップを持った。その指先が、小刻みに震えている。コーヒーの湯気が、彼女の強張った顔を白く包み込んだ。

「アカネから少し聞いたよ」

サトシは自分の分の煙草に火をつけ、静かに壁に背を預けた。

「家、出てきたんだってね」

ミノリはコップの茶色い液体を見つめたまま、ぽつりと呟いた。仮面のひび割れから、黒い本音が漏れ出す。

「……私、駄目なんです。ちゃんとしなきゃいけないのに。期待されてるのに……逃げちゃったから」

サトシはそれを否定もしなければ、安易に同情もしなかった。ただ、静かに紫煙を天井へと吐き出した。



「あのさ。逃げるのってさ、めちゃくちゃ体力いるんだよね」

サトシの低い、穏やかな声が室内に響く。ミノリが驚いたように顔を上げた。

「本当にどうでもいい奴は、最初から適当に流して生きてる。限界まで我慢して、ちゃんとして、ちゃんとして、それでももう心がパンクしそうになった人しか、逃げるっていう命がけの選択はできなかったりするんだよ。だから、お前は駄目なんかじゃない」

責めない声だった。綺麗事の慰めでもない。優しさの重みで一度内側から潰れたことのある、痛みを知っている人間の声だった。

サトシはミノリの目線に合わせるように、静かに腰を落とした。

「よく頑張ってきたんだね」

その瞬間。ミノリの瞳から、堰を切ったように大粒の涙がぽろぽろと落ちた。畳の上に小さな染みが広がっていく。

「……頑張らないと、価値がなくなる気がして」

「うん」

「ちゃんとしてないと、嫌われる気がして……」

「うん」

サトシは何も急かさなかった。立ち直れとも言わない。前を向けとも言わない。ただ、ここではどれだけ泣いてもいい、どれだけ無様でもいいという空気だけを、静かに部屋に置いている。

ミノリは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。ずっと箱庭の中で止めていた呼吸を、ようやく深く吐き出せた瞬間だった。



しばらくして。泣き疲れたミノリは、アカネが持ってきた毛布に包まったまま、幼子のように深い眠りについていた。その表情からは、先ほどまでの強張りが消え、年相応の幼さが戻っていた。

アカネが愛おしそうにその頭を撫でながら、小さく笑う。

「……やっと力抜けましたね」

サトシは灰皿に煙草を静かに押し潰した。

サトシという男は、誰かを無理に変えようとはしない。傷ついた人間を、無理やり前へ引っ張ろうともしない。ただ、壊れかけた人間が自らの痛みの重さで潰れてしまわないよう、境界線の外側で静かに煙草を燻らせ、嵐が過ぎ去るまでの逃げ場所を作る。

傷ついたままでいい。立ち止まったままでいい。嵐が過ぎ去るまで、ここでただ息をしていればいいという、立ち止まることを許す絶対的な肯定。

誰もそんな名前では呼ばない。

けれど、この雨音の向こう、古びたアパートの灯りの下に広がる、一切のノイズを削ぎ落とした空気。期待に押し潰され、箱庭の中で呼吸を忘れた迷子たちが、ようやく自分の痛みを認めて泥のように眠るための、静かで透明なサトシの静寂のエデンが、今夜も逃げてきた少女の夜をそっと守り続けていた。

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