3話前編:『「ちゃんとしなさい」という親の檻から、深夜のコンビニに裸足で逃げ出してきた優等生』
深夜二時。郊外の国道沿いにあるコンビニのガラス窓は、不自然なほど白々と周囲の闇を照らし出していた。雨上がりの湿ったアスファルトが、蛍光灯の光をぎらぎらと反射している。
タカシはレジの横で、廃棄直前の大盛り焼きそばと半額シールの貼られたコロッケの袋を大事そうに抱えていた。
「今日はマジで当たり日っすねぇ。サトシさんのアパートに持ってったら喜ぶかな」
一人で上機嫌に鼻歌交じりに呟きながら歩いていると、不意に空気が引っかかった。
雑誌コーナーの奥、チチル棚の前だった。高級そうな仕立てのコートを着た、白髪交じりの厳格そうな中年男性が、一人の若い女性を鋭い眼光で睨みつけていた。
女性――ミノリは、大学生らしい落ち着いた、けれど育ちの良さを感じさせる上品な衣服を身にまとっていた。
艶のある黒髪、乱れのない立ち姿。一目でちゃんとしてきた優等生だと分かる空気を纏っている。だが今の彼女は、その仮面の下で完全に怯え、身体を硬直させていた。
「帰るぞ」
父親は周囲を気にするように声を低くしたが、その分、拒絶を許さない重圧が言葉にこもっていた。
怒鳴っているわけじゃない。なのに、ミノリの肩は小さく震えていた。
「……帰りたくない」
ミノリは白くなるほど強く拳を握りしめ、チルド棚の床を見つめたまま、絞り出すように言った。
父親は不快そうに眉を寄せた。
「感情で判断するな。お前は今、冷静じゃない。大学の講義を無断で欠席して、こんな夜中まで携帯の電源を切って……どれだけ周囲に心配をかければ気が済むんだ。私はお前の将来を考えて言っている」
全部、正しい言葉だった。
タカシのようなバカな男でも分かる。この父親は、娘を傷つけたいわけじゃない。むしろ逆だ。めちゃくちゃ大事に、宝物みたいに育ててきたんだと思う。失敗させないように、傷つかせないように、完璧な箱庭の中で。
でも。
「お前には、お前に相応しい、約束された人生がある。それを一時の気の迷いで台無しにするな」
その言葉が突き刺さった瞬間、ミノリの瞳から、すうっと色が消えかけた。呼吸の音が聞こえなくなる。
タカシはレジの横で、思わず顔をしかめた。
(うわぁ……なんか今、完全に息止まったぞ、この姉ちゃん)
「いやぁ〜〜〜〜圧っっっっ!!」
気づいた時には、大声が店内に響いていた。
父親が不快感と警戒を露わにして振り返る。
「……君は誰だ。いま家族の話をしている」
「タカシ!!」
いつものように、私服のスウェット姿のまま胸を張る。
「いや、部外者は引っ込んでくれ。これは家庭の問題だ。警察を呼びますよ」
「でもさ、おじさん。その姉ちゃん、今めっちゃ苦しそうっすよ」
タカシは素直に、思ったままを言った。父親の眉間に、深い皺が寄る。
「苦労から逃げることを許していたら、人間は成長しない。私はこの子の将来のためを思って――」
「それは超分かる」
タカシは深く頷いた。皮肉でも何でもなく、本当に分かると思った。この父親、娘を間違えさせないために、ずっと必死で、ずっと怖がりながら守ってきたんだ。
「なんかさ」
タカシは父親の背後で立ち尽くすミノリを見た。
「この姉ちゃん、ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃって、自分で自分の首絞めて、ずっと呼吸止めてるみたいだわ」
ミノリの細い肩が、びくりと激しく震えた。父親は一瞬、言葉を失って黙り込む。
開いた自動ドアから、夜風が吹き込んでくる。雨上がりの匂いと、冷たい空気。
タカシはボリボリと頭を掻いた。
「俺さ、バカだから難しいこととか将来のこととかさっぱり分かんねぇんすけど」
父親は不審者を睨みつけるような目を崩さない。けれどタカシは一ミリも気にしなかった。
「親って、子供守りたいじゃないっすか。傷ついてほしくないし、失敗してほしくないし」
「当然だ。親なら当たり前の義務だ」
「うん。でもさ」
タカシは、鼻の頭を赤くしながら笑った。
「守りすぎるとさ、檻の中にいるみたいになって、歩けなくなる時あると思うんすよ。この姉ちゃん、多分ちょっとだけ、その檻の外の空気吸いてぇんだよ。おじさんが悪いわけじゃないと思う。でも、だから今日くらいさ、逃がしてやっても良くない?」
沈黙が、深夜のコンビニに重く落ちた。冷蔵ショーケースの微かな駆動音だけが遠くに聞こえる。
タカシは、この父親が悪人じゃないことだけは分かっていた。ただ、娘を愛するあまりに、正しさで囲い込みすぎた。
父親はゆっくりと、自分の娘を見た。
今までずっと見ていたはずの、優秀な成績や輝かしい将来の選択肢ではなく。初めて、限界寸前で今にも壊れそうな、一人の子供を見るみたいに。
ミノリは、今にも泣きそうな顔で、じっと父親を見つめ返していた。
「……友達の所へ行きます」
ミノリが小さく、けれど初めてはっきりとした声で言った。
父親は何かを言おうとして、けれど喉の奥で言葉を詰まらせた。そして、苦しそうに、敗北を認めるように息を吐いた。
「……明日、必ず連絡しろ」
それだけを残し、コートを翻して夜の雨の街へと消えていく。
ミノリはその背中を、静かに見送っていた。
「……大丈夫?」
タカシが声をかけると、ミノリは少しだけ困ったように、けれどどこかホッとしたように笑った。
「多分」
強い子だな、と思った。でも同時に、ずっとこうして一人で強がり続けて、ちゃんとした仮面を張り付け続けてきた子んだろうとも思った。
「友達ん家、ちゃんと行ける?」
「はい」
「そっか」
タカシはニカッと、太陽みたいに笑う。
「じゃあ今日はいっぱい深呼吸した方がいいっすよ。おじさんの圧、マジで凄かったからさ」
ミノリはきょとんとして、それから少しだけ笑った。本当に、ほんの少しだけ、張り詰めていた心が緩んだような笑顔だった。
タカシという男は、他人の孤独や事情へ、真正面から突っ込んでいく。
空気も読めず、境界線も分からず、ただ目の前の人間が苦しそうにしているという理由だけで飛び込む。それは、誰かの役に立たなければ自分に存在価値がないと、どこかで今も怯えているからだった。自己犠牲の影を抱えながら、だからこそ今日も、目の前で息を止めていた誰かへ向かって、全力で逃げてもいいと大声で吠える。
誰もそんな大層な名前では呼ばない。
けれど、このバカ犬みたいな男が強引に巻き起こす理屈抜きの熱量と、凍りついた空気を一瞬で溶かす圧倒的な推進力。それこそが、箱庭の中で呼吸を忘れた迷子たちが、もう一度だけ外の空気を吸うための、泥臭くて温かいタカシの熱気のエデンだった。




