2話後編:『失恋して、涙も出ない抜け殻になった彼女が、深夜のアパートでカレーの匂いに救われる話』
深夜零時。サトシのアパートの古い引き戸が、静かに開いた。
「サトシ、ちょっといい?」
入ってきたのはジュンだった。その後ろには、一人の女。
長い黒髪に、薄いメイク。綺麗なのに、まるで魂だけがどこかへ置いていかれたみたいな、虚ろな顔。
「……アカネちゃん?」
サトシが目を細める。アカネは元々、ジュンの知り合いだった。昼職で働く、ごく普通の、真面目な女性。
ただ今夜の彼女は、明らかに様子がおかしかった。
「失恋したの」
ジュンが冷え切った声でため息混じりに言う。
「しかも最悪なやつ。三年付き合って、結婚の話まで出てた男に、他に好きな子できたって。今日荷物全部追い出されたんだってさ」
アカネは俯いたまま、膝の上で手をぎゅっと握りしめている。何も言わず、表情も変えない。
だが、サトシはすぐに気づいた。この女、本当に壊れかけている。
泣けないのだ。
本当に傷が深すぎる時、人間は防衛本能で涙すら出なくなる。痛覚を麻痺させて、ただの殻になっている状態だった。
「ほんっと男って最低。反吐が出るわ」
ジュンは缶チューハイを開けながら、低く毒づいた。その目は笑っていない。
「アカネちゃん、あの男のためにめちゃくちゃ頑張ってたんだよ。仕事帰りに毎日あいつの家行って、料理して、洗濯して、あいつが金ない時は生活費まで補填してさ。尽くして、尽くして、尽くし続けた。なのに最後は、お前のそういう重いところが無理の一言で切り捨てられた」
アカネは小さく身を縮める。
「重くさせたの、誰よって話じゃない? 便利に使っておいて、いらなくなったらゴミ箱行き?」
ジュンの声は、どこまでも静かだった。だが、その奥には刃のような怒りが滲んでいた。
ジュンは面倒見が良い。けれど同時に、他人の優しさを搾取する人間を心底憎んでいた。
サトシが夜の世界で、病んだ客や悪質な売掛の重さに潰され、ボロボロになっていく姿を一番近くで見てきたからだ。分かってくれるよね、優しいねという言葉で他人の心を雑に消費し、壊れたら捨てる外道どもを、ジュンは絶対に許さない。男を見る目の異常な鋭さも、嘘を即座に見抜く審美眼も、すべてはその夜の底で培ったものだった。
「……なんで」
ずっと石のように黙っていたアカネが、ぽつりと呟いた。その声は、砂のように掠れていた。
「私、ちゃんと頑張ってたのに。ちゃんと好きだったのに。ちゃんと大事にしてたのに……なんで、捨てられたんだろ……」
頑張れば報われると信じていた。尽くせば愛されると信じていた。その世界のルールが根底から覆り、自分の存在すべてを否定されたアカネは、もうどこへ帰ればいいのか分からなくなっていた。
サトシは何も言わず、煙草に火をつけた。
チッと小さな音がして、紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。サトシはアカネの目線に合わせるように、静かに腰を落とした。
「あのさ」
サトシは、夜の王だった頃と同じ、けれどエプロン姿の今と何も変わらない、低く穏やかな声で言った。
「頑張った人が報われるとは限らないんだよね。この世界は、けっこう理不尽だから」
アカネの肩が、びくりと震える。慰めを期待していた彼女には、あまりにも冷たい現実に思えた。
しかし、サトシは続けた。
「でもさ。アカネちゃんが頑張ったこと自体は、誰にも汚せないし、なくならないよ」
優しい声だった。綺麗事でも、安っぽい同情でもない。優しさの重みで一度死んだことのある男だけができる、傷口の隣にただ座るという応援の形。
「裏切ったあいつがカスなだけで、アカネちゃんは、ちゃんと人を愛したんだと思う。それは、誇っていいことだよ」
その瞬間。アカネの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。
ぽろ、ぽろと、畳の上に染みを作っていく。嗚咽が部屋に満ちる。彼女はサトシが作った、泣いてもいい境界線の中で、ようやく自分が傷ついていることを認めることができたのだった。
しばらくして。泣き疲れたアカネは、ジュンの肩にもたれながら、幼子のように深い眠りについていた。
「……やっと泣けた。ありがと、サトシ」
ジュンが少しだけ毒の抜けた顔で、小さく笑う。サトシは灰皿に煙草を静かに押し潰した。
「ジュンってさ、昔からこういう子連れてくるよね。自分の限界超えるまで尽くしちゃうような奴」
「だって放っとけないじゃない。誰かさんに似ててさ」
ジュンは苦笑した。サトシは「俺はもう引退したよ」と笑って窓の外を見る。
窓の外では、雨が静かに、全てを洗い流すように降り始めていた。
サトシという男の周りには、いつもこの静けさがある。
彼は他人の境界線を決して侵さない。土足で踏み込んで無理に前を向かせようともしない。ただ、傷ついた人間が自らの重みで潰れてしまわないよう、境界線の外側で静かに煙草を燻らせ、嵐が過ぎ去るまでの逃げ道を用意する。無理に変ろうとしなくていい、傷ついたままでいいという、立ち止まることを許す絶対的な肯定。
誰もそんな名前では呼ばない。
けれど、この雨の音の向こう、古びたアパートの灯りの下に広がる、一切のノイズを削ぎ落とした空気。傷ついた人間がただ傷ついたままそこにいて、自らの涙で夜を洗い流すのをただ隣で見守ってくれる、静かで透明なサトシの静寂のエデンが、今夜も帰る場所を失った迷子たちの心をそっと救い上げていた。




