表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「ちゃんとしなきゃ」と息を止めているあなたを、100%全肯定する深夜アパートの話  作者: チャラン・ポラン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/69

2話後編:『失恋して、涙も出ない抜け殻になった彼女が、深夜のアパートでカレーの匂いに救われる話』

深夜零時。サトシのアパートの古い引き戸が、静かに開いた。


「サトシ、ちょっといい?」

入ってきたのはジュンだった。その後ろには、一人の女。

長い黒髪に、薄いメイク。綺麗なのに、まるで魂だけがどこかへ置いていかれたみたいな、虚ろな顔。


「……アカネちゃん?」

サトシが目を細める。アカネは元々、ジュンの知り合いだった。昼職で働く、ごく普通の、真面目な女性。

ただ今夜の彼女は、明らかに様子がおかしかった。


「失恋したの」

ジュンが冷え切った声でため息混じりに言う。

「しかも最悪なやつ。三年付き合って、結婚の話まで出てた男に、他に好きな子できたって。今日荷物全部追い出されたんだってさ」


アカネは俯いたまま、膝の上で手をぎゅっと握りしめている。何も言わず、表情も変えない。

だが、サトシはすぐに気づいた。この女、本当に壊れかけている。


泣けないのだ。

本当に傷が深すぎる時、人間は防衛本能で涙すら出なくなる。痛覚を麻痺させて、ただの殻になっている状態だった。



「ほんっと男って最低。反吐が出るわ」


ジュンは缶チューハイを開けながら、低く毒づいた。その目は笑っていない。

「アカネちゃん、あの男のためにめちゃくちゃ頑張ってたんだよ。仕事帰りに毎日あいつの家行って、料理して、洗濯して、あいつが金ない時は生活費まで補填してさ。尽くして、尽くして、尽くし続けた。なのに最後は、お前のそういう重いところが無理の一言で切り捨てられた」


アカネは小さく身を縮める。

「重くさせたの、誰よって話じゃない? 便利に使っておいて、いらなくなったらゴミ箱行き?」


ジュンの声は、どこまでも静かだった。だが、その奥には刃のような怒りが滲んでいた。

ジュンは面倒見が良い。けれど同時に、他人の優しさを搾取する人間を心底憎んでいた。


サトシが夜の世界で、病んだ客や悪質な売掛の重さに潰され、ボロボロになっていく姿を一番近くで見てきたからだ。分かってくれるよね、優しいねという言葉で他人の心を雑に消費し、壊れたら捨てる外道どもを、ジュンは絶対に許さない。男を見る目の異常な鋭さも、嘘を即座に見抜く審美眼も、すべてはその夜の底で培ったものだった。



「……なんで」

ずっと石のように黙っていたアカネが、ぽつりと呟いた。その声は、砂のように掠れていた。


「私、ちゃんと頑張ってたのに。ちゃんと好きだったのに。ちゃんと大事にしてたのに……なんで、捨てられたんだろ……」


頑張れば報われると信じていた。尽くせば愛されると信じていた。その世界のルールが根底から覆り、自分の存在すべてを否定されたアカネは、もうどこへ帰ればいいのか分からなくなっていた。


サトシは何も言わず、煙草に火をつけた。

チッと小さな音がして、紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。サトシはアカネの目線に合わせるように、静かに腰を落とした。


「あのさ」

サトシは、夜の王だった頃と同じ、けれどエプロン姿の今と何も変わらない、低く穏やかな声で言った。

「頑張った人が報われるとは限らないんだよね。この世界は、けっこう理不尽だから」


アカネの肩が、びくりと震える。慰めを期待していた彼女には、あまりにも冷たい現実に思えた。

しかし、サトシは続けた。


「でもさ。アカネちゃんが頑張ったこと自体は、誰にも汚せないし、なくならないよ」

優しい声だった。綺麗事でも、安っぽい同情でもない。優しさの重みで一度死んだことのある男だけができる、傷口の隣にただ座るという応援の形。


「裏切ったあいつがカスなだけで、アカネちゃんは、ちゃんと人を愛したんだと思う。それは、誇っていいことだよ」


その瞬間。アカネの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。

ぽろ、ぽろと、畳の上に染みを作っていく。嗚咽が部屋に満ちる。彼女はサトシが作った、泣いてもいい境界線の中で、ようやく自分が傷ついていることを認めることができたのだった。



しばらくして。泣き疲れたアカネは、ジュンの肩にもたれながら、幼子のように深い眠りについていた。


「……やっと泣けた。ありがと、サトシ」

ジュンが少しだけ毒の抜けた顔で、小さく笑う。サトシは灰皿に煙草を静かに押し潰した。


「ジュンってさ、昔からこういう子連れてくるよね。自分の限界超えるまで尽くしちゃうような奴」

「だって放っとけないじゃない。誰かさんに似ててさ」

ジュンは苦笑した。サトシは「俺はもう引退したよ」と笑って窓の外を見る。


窓の外では、雨が静かに、全てを洗い流すように降り始めていた。


サトシという男の周りには、いつもこの静けさがある。

彼は他人の境界線を決して侵さない。土足で踏み込んで無理に前を向かせようともしない。ただ、傷ついた人間が自らの重みで潰れてしまわないよう、境界線の外側で静かに煙草を燻らせ、嵐が過ぎ去るまでの逃げ道を用意する。無理に変ろうとしなくていい、傷ついたままでいいという、立ち止まることを許す絶対的な肯定。


誰もそんな名前では呼ばない。

けれど、この雨の音の向こう、古びたアパートの灯りの下に広がる、一切のノイズを削ぎ落とした空気。傷ついた人間がただ傷ついたままそこにいて、自らの涙で夜を洗い流すのをただ隣で見守ってくれる、静かで透明なサトシの静寂のエデンが、今夜も帰る場所を失った迷子たちの心をそっと救い上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ