2話前編:『「お前、本当にその夢が欲しいの?」――他人の境界線に土足で踏み込んでくる、スウェット大男の男気』
雨上がりの駅前ロータリー。
終電前の人混みの隅で、一人の青年がアコースティックギターを抱えて歌っていた。
掠れた声。震える指先。譜面台の横には、ほとんど中身の入っていない投げ銭ケース。
青年の名前はユウキ。二十五歳。インディーズバンドのボーカルだった。
だが現実の壁は厚かった。メンバーは一人辞め、ライブハウスのノルマ代に追われ、SNSに曲を上げても反応はほとんどない。
それでも歌うしかなかった。歌うことをやめた瞬間、自分が空っぽになる気がして。
けれど。
「……もう無理かな」
歌い終わったあと、ユウキは小さく呟いた。
通り過ぎる人々は誰も立ち止まらない。拍手もない。夢だけで食えるほど、世界は優しくなかった。
その時だった。
「兄ちゃん!! 今の曲めちゃくちゃ良かった!!」
突然、鼓膜を震わせる爆音みたいな声が飛んできた。
「……は?」
顔を上げると、そこには半額シールの貼られた惣菜袋をぶら下げた大男が立っていた。
スウェット姿。無駄にデカい体。やけに真っ直ぐな、大型犬みたいな目。
タカシだった。
「いやマジで!! サビ超良くなかった!? “帰れない夜に名前を落とした”ってとこ!! あそこ鳥肌立ったわ!!」
タカシは興奮した様子でまくし立てる。
ユウキは困惑し、そして少しだけ不快だった。こういう妙に熱い人が一番苦手だった。夢を追う苦しさも、置いていかれる恐怖も知らないくせに、境界線の外側から軽々しく頑張れと言ってくる人種だ。
「……どうも」
愛想なくギターをケースに収める。だがタカシは一ミリも気にしなかった。
「兄ちゃん、プロ目指してんの?」
「……まぁ、一応」
「すげぇじゃん!!」
「全然すごくないですよ」
ユウキは吐き捨てるように笑った。
「売れてないし。客もいないし。メンバーも辞めるし。バイトしながら音楽とか、もう限界っすよ」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど感情が溢れた。
「好きだけじゃ食えないんすよ。才能ない奴は消えるだけ。頑張った奴が報われる世界じゃねぇし」
悔しかった。夢を諦めきれない自分が、一番みっともなくて嫌いだった。
すると、タカシは真顔で首を傾げた。
「でも兄ちゃん、まだ歌ってんじゃん」
「……は?」
「辞めたいなら、とっくに辞めてるだろ?」
あまりにも単純な、子供みたいな言葉だった。だが、その一ミリの計算もない真っ直ぐさが、ユウキの頑なな胸の奥に妙に深く刺さった。
「俺さ、バカだから難しいこと分かんねぇんだけど」
タカシは自販機で缶コーヒーを二本買うと、冷え切ったユウキの手へ無理やり片方を押し付けた。
「本当にダメな奴ってさ、やりたいって気持ち自体なくなると思うんだよな」
夜風が吹く。
「兄ちゃん、まだ悔しいんだろ? だったら、まだ終わってねぇじゃん」
夢を諦めきれない苦しさ。報われない努力。置いていかれる焦り。そんなもの、綺麗事で片付けられるわけがない。
けれどタカシは、それを否定しなかった。
「売れなくてもさ。誰も聴いてなくてもさ。今日、俺には届いたぞ」
タカシは、鼻の頭を掻きながら照れ臭そうに笑った。
「だから俺、兄ちゃんの歌、好きだけどな」
その瞬間。ユウキの喉の奥に、熱いものが込み上げた。
評価じゃない。数字でもない。ただ、自分の歪な叫びが、目の前の男に届いたと言われた。それだけで、擦り切れかけていた心が、どうしようもなく救われてしまった。
数日後。商店街の片隅にある、サトシの狭いアパートの一室。
「サトシさん聞いてくださいよ!! あの兄ちゃん、今日ライブなんすよ!!」
「お前、また知らない奴拾ってきたのか……」
煙草を咥えたサトシが呆れたように目を細める。その隣では、ユウキが恐縮しきった顔で座っていた。
「す、すみません……なんか流れで……」
「気にしなくていいよ。タカシが人拾うの、いつものことだから」
サトシは苦笑した。狭い部屋には家庭的なカレーの匂いが漂っている。タカシは嬉しそうに鍋をかき混ぜていた。
「兄ちゃん絶対売れますって!! 俺、見る目あるんで!!」
「お前の見る目はだいたい勢いだけだろ」
「勢いは超大事っすよ!?」
騒がしいやり取りに、ユウキは思わず吹き出した。こんなふうに腹の底から笑ったのは、いつぶりだっただろう。
夢はまだ苦しいままだ。現実は何も変わっていない。それでも、目の前で大笑いしているこのバカみたいな男を見ていると、なぜか「まだ自分は消えていない」という確信が湧いてくる。
「……もうちょい、やってみます」
ユウキが小さく呟くと、タカシは自分のことのように満面の笑みを浮かべた。
「おう!! 次のライブ絶対行く!!」
タカシは空気を読まず、土足で他人の心に踏み込み、時には自分の体温をすり減らしてまで、他人の夢を自分のことのように必死に追いかける。
狭いワンルームに満ちる安っぽいカレーの匂い。タカシが発するむさ苦しいほどの熱気。
サトシが吐き出す紫煙。ジュンがふと見せる柔らかい笑み。
ここには、誰もが属性を問われないまま息を吹き返せる場所があった。
迷い、傷つき、行き場を失った者たちが吸い寄せられる、名前のない聖域。誰もその名を口にはしないが、ユウキはこの場所こそが、たった一つ許された自分のエデンなのだと直感していた。
外は相変わらず冷たい雨がアスファルトを濡らしているけれど、この古いアパートの片隅から広がる、誰の孤独も弾き飛ばすような温かさ。
ユウキはふと、煙草をくゆらすサトシの横顔と、騒ぐタカシを見渡した。
冷え切った駅前ロータリーで震えていた自分を、この男たちはただの「売れないバンドマン」ではなく、自分と同じように迷い、それでも歌おうとする「人間」として認めてくれた。
「明日、新しい曲の譜面を持ってきますよ」
ユウキがそう言うと、タカシはさらに嬉しそうに鍋をかき混ぜる。
ジュンが笑い、サトシが呆れながら煙草の灰を落とす。
その手応えだけは、今もユウキの手のひらに温かさとして残っていた。今夜も小さな商店街の片隅を、あのバカみたいに真っ直ぐな熱気が、確かに暖めている。




