1話後編:『歌舞伎町からアパートまでストーカーがついてきた。でも、追い出す気は起きなかった』
ミサキは、サトシという男に、文字通り壊れるほどの執着を抱いていた。
元ホスト時代のサトシに救われた女。
親からも見捨てられ、誰からもまともに名前すら呼ばれなかった暗闇の夜。自暴自棄になって歌舞伎町の片隅でうずくまっていた自分に、ただ一人、傘を差し伸べてくれたのがサトシだった。
『無理して笑わなくていいよ。ここでは、泣きたいときに泣けばいい』
その、ガラス細工のように繊細で、どこまでも深いサトシの一言が、ミサキの凍りついていた世界を永遠に変えてしまった。彼はミサキを地獄から救い出してくれた神様だった。だからミサキは、それからの人生のすべてを、サトシだけを見て、サトシの呼吸だけを追いかけて生きてきた。掴めそうで、どうしても掴めない。指先が触れたと思った瞬間に、するりと腕の中から逃げていく彼が遠ざかるたびに、胸の奥はじわじわと黒く濁った焦燥感に焼き尽くされていった。彼がいない世界なんて、息の仕方も分からない。
「サトシさん!! いるんでしょ!?」
深夜二時。これ以上、胸の渇きを抑えきれなくなったミサキは、サトシの安アパートのドアを激しく叩き、鍵の壊れた引き戸を勢いよく開け放った。
今すぐサトシの匂いに触れたかった。彼の声を聴いて、自分の存在を確かめたかった。
だが、暗い部屋の中に広がっていたのは、サトシの愛用する煙草の匂いではなかった。
漂ってきたのは、なぜか妙に家庭的な、スパイスの効いたカレーの匂い。
そして、部屋の中央にいたのは――。
ぼんやりとした蛍光灯の下、上半身裸のまま、特大の鍋から直接カレーを凄まじい勢いでかき込んでいる、見たこともないデカい男だった。
「……は? 誰、あんた」
ミサキの声が、地を走るように低くなる。
「え? むぐっ……ゴクン。あ、俺? タカシだけど」
大男はスプーンを咥えたまま、無防備に首を傾げた。
「は?」
意味が分からなかった。脳の理解が完全に拒絶している。
なぜサトシの神聖な部屋に、こんな小汚い、野生の大型犬みたいな男が我が物顔で鎮座しているのか。
しかも。
「サトシさんなら、今コンビニの夜勤中っすよ。すぐ戻ると思う。っていうか、姉ちゃんもカレー食います? まだまだいっぱいあるよ!」
自然すぎる。その空間にいることが、タカシにとってあまりにも当たり前すぎるのだ。まるで長年同棲しているパートナーのような、一ミリの遠慮もない絶対的な距離感。
サトシの特別になりたくて、何年も血を吐くような思いで追いかけてきたミサキの中で、何かがブチッと、音を立てて千切れ飛んだ。
「……殺す」
ミサキの目が、完全に据わった。
最初、ミサキはタカシのことが反吐が出るほど大嫌いだった。
暑苦しい。声がデカい。距離感がバカ。空気が一ミリも読めない。何より、サトシのようにスマートでもなければ、器用に人を救うことすらできない、ただの無能な大男。
なのに。
ある土曜日の夜、ミサキは商店街の裏通りで、偶然タカシの姿を見かけてしまった。
彼は自分の服を泥だらけにしながら、意識の朦朧とした身寄りのない酔っ払いの老人を、嬉しそうに背負って家まで送り届けていた。
また別の日には、駅前のベンチで、迷子になって泣きじゃくる小さな子供と一緒に、なぜかタカシ自身もボロボロと大粒の涙を流しながら、交番へ駆け込んでいた。
さらに別の日には、裏路地でタチの悪いヤカラたちに囲まれ、何発も殴られて顔をボロボロに変形させられながらも、見ず知らずの他人の女の子を自分の大きな身体の盾で必死に庇い続けていた。
全部、不格好だった。全部、泥臭くて、ダサくて、スマートさなんて微塵もなかった。
サトシのように美しく他人の心に入り込むことなんて、こいつには絶対にできない。
なのに――。
「……ねえ。アンタ、なんでそこまでするわけ?」
ある夜、顔に絆創膏を何枚も貼ったタカシに、ミサキは苛立ちを隠せないまま尋ねた。損ばかりして、傷ついて、何の意味があるのかと。
するとタカシは、腫れ上がった目をパチクリとさせて、本気で不思議そうな顔をした。
「え? なんでって……目の前で、その人が困ってたからだけど」
その瞬間。ミサキの中で、これまで頑なにサトシ一人のみに向けられていた感情のベクトルが、ほんの少しだけ、カタカタと形を変えて動き始めるのを確かに感じた。
サトシは、他人の深い傷を、静かにその境界線の外から包み込んでくれる男だった。
でもタカシは、他人の孤独の殻を、自分の傷なんてお構いなしに、真正面からドカンと突き破って入ってくる男だった。
その不器用な熱量に、ミサキの頑なだった心の壁が、わずかに揺らいだ。
「今日からここ住むから。文句言ったら刺すわよ」
一週間後。ミサキは両手に収まりきらないほどの大量の旅行カバンを引きずって、タカシの住むボロアパートの部屋へ突然押し入ってきた。
「いや意味分かんねぇだろ!! なんで俺の家なんだよ!? サトシさんの家に行けよ!」
タカシが部屋の隅で頭を抱えて絶叫する。
「うるさいわね! アンタ、放っとくと三日で野垂れ死ぬじゃん! バカなんだから!」
「死なねぇよ!! 俺の生命力舐めんな!」
「この前、サトシさんが夜勤のとき、コンビニ飯だけで三日間過ごしたでしょ! 栄養失調で倒れかけてた癖に!」
「なんでそれ知ってんだよ!! ストーカーかよ!?」
ドタバタと狭い部屋で怒鳴り合う二人を、アパートの引き戸に寄りかかったサトシが、お腹を抱えてケラケラと本当に楽しそうに笑って見ていた。
後から様子見にやってきたジュンも、「あら、賑やかになって良かったじゃない」と、クスクス笑いながらミサキの荷物を部屋の中に運び込んでいる。
ジュンは単なる聖母ではない。サトシが潰れていく様を一番近くで見てきたからこそ、彼を利用しようとする人間の嘘を絶対に見抜く鋭い眼光を隠し持っている。そのジュンが、ミサキとタカシの歪な噛み合い方を優しく肯定していた。
「助けてサトシさん!! ジュンさんも!! この女マジで狂暴なんすよ!!」
タカシの情けない悲鳴が夜の商店街に響き渡る。
ミサキはフン、と鼻を鳴らし、買ってきたばかりの安物のフライパンをコンロに置いた。歌舞伎町の底で、死にそうな顔でサトシの背中だけを追いかけていた頃には、自分がこんなむさ苦しい大男のために飯を作ることになるなんて、想像もしなかった。
ひび割れた畳、うるさい怒鳴り声とサトシの笑い声。部屋に満ちていくのは、かつて焦がれた冷たい夜の匂いではなく、少し煮詰まったような、温かいスープの匂いだ。
「うるさい、黙って食べなさいよ。……ほら、サトシさんもジュンさんも、お皿出すから座って」
サトシを“所有”したいと狂っていた女が、今度はタカシという愚直な犬の隣で、誰かの居場所を共に守る側になっていく。救われた迷子が、今度は別のバカな迷子の手を引いて、ここにいる。
外の冷たい雨はまだ止みそうにないけれど、この騒がしくて狭いワンルームから広がる熱気だけは、誰の孤独も弾き飛ばすように、今夜も小さな商店街の片隅をじわじわと、確かに暖めているのだった。




