1話前編:『「誰の役にも立てない自分には価値がない」と怯えるバカ犬を、元ホストが部屋に招き入れた夜』
繁華街のネオンが、雨上がりのアスファルトにぎらぎらと刺々しく滲んでいた。
かつてその街で“夜の王”と呼ばれた男――サトシは、背後の喧騒を振り返ることもなく、静かに去ろうとしていた。
元ホスト。指名は絶えず、女を酔わせ、同業者からも一目置かれていた男。
だが、あの華やかな夜の世界は、サトシの性質をじわじわと削り取るだけだった。客の薄っぺらい愚痴をどうしても聞き流せず、売掛の沼で壊れていく女を見捨てられずに自腹を切る。ホスト同士の足を引っ張り合う泥仕合に、どうしても心を冷酷にできなかった。
優しすぎる男は、その重さに耐えかねて、内側から勝手に潰れてしまっただけだ。
『サトシってさ、優しすぎるんだよね。ホストとしては、致命的なくらい』
最後に、同じ店で働いていたジュンがそう言って寂しそうに笑った。
サトシは何も言わず、ただ煙草を咥えて火をつけた。
『向いてなかっただけだろ』
吐き出した白い煙は、夜の闇に溶けてすぐに消えた。
夜を捨てた男は、かつての派手な生活のすべてを清算し、古い商店街の片隅にある築四十年の安アパートへ流れ着いた。
昼は薄暗い倉庫で黙々と荷物を運び、夜は駅前の寂れたコンビニでバイトを掛け持ちする。誰の人生も背負わなくていい、ただ息をしているだけの隠居のような生活。サトシはそれで満足していた。
そんなある夜。
彼の静かに凪いでいた日常へ、一台のダンプカーみたいな大男が、全力で突っ込んできた。
「ッざけんなテメェ!! 離せよコラァ!!」
深夜二時のコンビニ。
店内に入り混じる怒鳴り声と共に、ガラス窓の向こうでガシャーン!!と盛大な金属音が響き渡った。自販機に誰かの身体が叩きつけられた音だった。
レジに入っていたサトシが深くため息をつき、自動ドアを開けて外へ出る。
街灯の下、備え付けの自販機の前で、薄汚れたスウェット姿の大男が、いかにもタチの悪そうな半グレ風の男二人組に胸ぐらを掴まれていた。大男は鼻血を垂らしながらも、狂ったように吠え続けている。
「お前ら今、あそこで泣いてたあの女子高生に、無理やり何しようとしてたんだよ!! 謝れクソ野郎!!」
「はぁ!? 知らねぇよ! 関係ねぇだろ、何だお前、兄ちゃん!」
半グレたちが吐き捨てる。
サトシは周囲に視線を走らせたが、肝心の女子高生本人は、恐怖からか、すでに夜の闇に紛れてどこかへ逃げ去った後だった。
指をさして憤る大男は、助けた相手が避難したことすら気づかず、完全に一人で勝手にキレて、勝手に窮地に陥っている。
(なんだコイツ……)
サトシは心の底から呆れた。
正義感だけで動いて、周囲の空気も読めず、事態を収拾するための計算もゼロ。おまけに、威勢が良いだけで圧倒的に喧嘩が弱い。
案の案の定、大男は次の瞬間、半グレの鋭い前蹴りを腹に食らい、地面に這いつくばった。そこへ容赦のない蹴りが何度も振り下ろされる。
「ッいってぇ!! 痛てぇなクソッ!! ……でもよぉ、テメェら、抵抗できねえ女泣かすのは、男としてクソダセェだろ!!」
殴られ、蹴られ、泥まみれになりながら、それでも尚、真っ直ぐな目で説教を垂れる大男。
そのあまりの愚直さと、不器用な生き様に、サトシはポケットの中で握りしめていた拳を、諦めたように緩めた。
「……ただのバカ犬じゃん」
そう呟いた時には、もう遅かった。夜の街を辞めるとき、二度と他人の面倒事には首を突っ込まないと決めたはずなのに。気づけばサトシの足は、路地裏の暗がりへと動き出していた。
「その辺にしとけよ」
サトシが半グレと大男の間に割り込んだ瞬間、その場の空気がピキリと凍りついた。
「あぁ? なんだテメェ、ただのコンビニ店員が――」
凄もうとした半グレの言葉が、途中でピタリと止まる。男たちの顔色が、見る見るうちに強張っていった。
夜の街の深い底を生き抜いてきた人間には、独特の気配がある。言葉にせずとも、立ち姿ひとつ、視線の置き方ひとつで、相手の「格」を理解させるもの。サトシは白シャツにエプロンという冴えない格好をしていたが、底なしの夜を支配してきた男特有の、静かな、圧倒的な威圧感だけは、爪を隠しても尚、消え去ってはいなかった。
「……誰だ、お前」
半グレのボス格が、冷や汗を流しながら一歩後退する。
「見ての通り。ただのコンビニ店員」
サトシはいつものように、柔らかく、底の知れない笑みを浮かべた。けれど、その目は一ミリも笑っていない。
「チッ……クソが。行くぞ」
本能的に「関わってはいけない相手」だと察した半グレたちは、吐き捨てるような舌打ちを残し、夜の街へと足早に逃げ去っていった。
静寂が戻った自販機の前。
地面に座り込み、顔中を腫らした大男――タカシは、痛みに顔をしかめながらも、なぜかキラキラとした、まるで太陽のような純粋な目でサトシを見上げていた。
「……アンタ、すげぇな。今の何!? 魔法みたいだったわ!」
「いや、お前が救いようのないバカなだけだ。相手が逃げたことも気づかないで、何一人でボコられてんだよ」
「でも! 助ける時、アンタ一ミリも迷わなかっただろ!」
「迷ったわ。めちゃくちゃ無視してアパート帰りたかった」
「カッケェ……! 本物のヒーローじゃん!」
(ダメだコイツ、話が通じない)
サトシは頭を抱えた。だが、タカシの猛突進は止まらない。
「アンタ、名前は!?」
タカシはボロボロの手で、ぶんぶんと尻尾を振るように身を乗り出してきた。
「……サトシ」
「俺、タカシ!!」
満面の、一点の曇りもない大型犬みたいな笑顔だった。
その光に当てられた瞬間、サトシは胸の奥で、うっすらと逃れられない予感を理解してしまう。
――ああ、コイツ。たぶん放っておくと、明日にはどこかの路地裏で死ぬ。
数日後。商店街の片隅にある、サトシの狭いアパートの一室。
「よっしゃー!! 駅前のスーパーで肉がめちゃくちゃ安かったんで、買ってきました!! 今夜はすき焼きっすね!」
ガラリとドアを開け、両手いっぱいの買い物袋を掲げて入ってきたのは、当然のようにタカシだった。
「おい。なんでお前が当然みたいに俺ん家の冷蔵庫の在庫を把握してんだよ」
"え? こないだチラッと見たら、ネギと豆腐しか入ってなかったから、足りなそうだなと思って"
「人の家に勝手に上がり込むな。あと鍵を閉めてても窓から入ってくるのをやめろ」
文句を言われながらも、タカシは「へへっ」と笑いながら手際よく鍋の準備を始めている。
勝手に転がり込み、勝手に人の飯を作り、そして夜になれば、またどこかで誰かの泣き声を聞きつけて、勝手に人助けへ飛び出していく男。
タカシは、サトシがこれまでの人生で、最も意図して避けてきた種類の人間だった。真っ直ぐすぎる。暑苦しい。あるいは、あまりにもバカすぎる。
でも――。
「……なんかさ、アンタのこと、放っとけないんすよ」
ある夜。街の裏通りで泥酔して行き倒れていた見知らぬ老人を、当然のように背負って帰ってきたタカシが、額の汗を拭いながら照れ臭そうに笑った。
「なんか、アンタの後ろ姿見てると。優しくて、でも今にもどっか消えちゃいそうで。俺、バカだから難しいことは分かんねえけど……アンタが一人で寂しそうにしてんのは、なんか嫌なんすよ」
タカシが他人のためにボコボコにされても笑っているのは、単なるノーテンキだからではない。
「お前は馬鹿で何の役にも立たない」と徹底的に否定されて育った過去の傷を隠すように、「誰かの役に立っている瞬間」しか, 自分の存在を許せないのだ。自分はどうなってもいいという、自己犠牲ゆえの狂気。
サトシは、その歪んだ自己評価の低さを、夜の世界で何人も見てきた。だからこそ、見て見ぬ振りができなかった。
サトシは窓辺で煙草を咥えたまま、紫煙の向こうにあるタカシの顔を、小さく目を細めて見つめた。
優しさの重みに耐えかねて、静かに夜を去った男。
不格好な正義感だけを武器に、無謀に世界へ突っ走る男。
まるで噛み合わないはずの、交わるはずのなかった二人の歯車が、カタカタと音を立てて回り始めている。
タカシが買ってきた安い肉を鍋に放り込みながら、サトシは心の中でまた一つため息をつく。二度と他人の人生に関わらないと決めていたはずなのに、目の前で美味そうに肉を頬張る大男のせいで、ワンルームの冷え切っていた空気は、嫌になるくらい暖まっていた。
かつてサトシがいた夜の街は、立ち止まった者を容赦なく踏みつけていく場所だった。けれど、タカシがどこからか拾ってくる街の迷子たちや、人生の行き先に迷ってボロボロになった誰かが、この狭い部屋のドアを叩くたび、ここはいつの間にか、誰も属性を問われない、ただ息をつくためだけの場所になっていた。名前も理由もない、ただ激しい雨をしのぐためだけの、小さな雨宿りの場所。
「おいサトシさん、肉焦げますよ! 早く食いましょう!」
箸を突き出して急かす大男を睨みつけ、サトシは苦笑しながら煙草を灰皿に押し付けた。
部屋に満ちる安っぽいすき焼きの湯気と、むさ苦しいほどの熱気。外は相変わらず冷たい雨がアスファルトを濡らしているけれど、この古いアパートの片隅から広がる緩やかな空気だけは、誰の孤独も見落とさないように、静かに、けれど確かにこの街へ根付き始めていくのだった。




