『噛み合わない分水嶺』後編
深夜。西部の店の前。
頭上の街灯が放つ青白い光が、まるで劇場のスポットライトのようにアスファルトを寒々と照らしている。近くの自販機から漏れる蛍光灯の光の中に、小さな虫がパタパタと羽を打つ音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。
その冷たいシャッターの脇に体をすくめながら、アカネはまた暗い泥の中に沈み込んでいた。
(やっぱり、私は変われないんだ……)
タカシとユイの楽しそうな姿を見た昼間の記憶が、胸の奥でドロドロとした執着の塊に変わっていく。また誰かを失うのが怖い。相手に「重い」と思われるのが怖くて、必死に物分かりのいい振りをしているのに、内側は破裂しそうに苦しい。
かつてボロボロになって壊れたあの頃の自分から、一歩も進めていないような絶望感が、涙になって足元に落ちた。
勝手口のドアが開き、西部が外に出てくるのが見えた。
いつも通り、世界のすべてに興味がなさそうな、冷たくて乾いた目。
「……西部さん」
アカネは、この胸の苦しさを誰かに聞いてほしくて、縋るように掠れた声を漏らした。
「私って、結局また同じなんですかね。どれだけ気をつけても、結局また誰かに依存して、重くなって、最後は破裂しちゃうのかな……」
西部は、ポケットからクールのパックを取り出し、一本に火をつけた。その先端の赤火が、暗闇の中で冷酷なほど静かに明滅し、鋭いメンソールの匂いが夜の乾燥した空気に混ざって鼻腔を突く。
「違うだろ」
西部の短い声が、夜の静寂を切り裂いた。
「え……?」
アカネは、息を詰めて顔を上げた。
西部は壁に背をもたせ、煙を燻らせながら、ただじっとアカネを見下ろしている。
「お前さ。捨てられるのが怖いんじゃない」
その視線が、自分の内面の醜い場所をすべて見透かしているようで、アカネは小さく身を硬くした。
「自分が誰かを嫌いになる方が怖いんだよ」
その瞬間、アカネの脳裏に、激しい雷が落ちたような衝撃が走った。
あまりの衝撃に、身体が完全に固まる。自販機の「ブー」という低い重低音さえ、一瞬で遠ざかっていく。
(ああ……、そうか……っ)
私は、「相手に嫌われること」や「見捨てられること」が怖かったんじゃない。
違った。本当は、あんなに大好きだった人、あんなに自分を救ってくれた大切な人を、自分の心が我慢の限界を迎えて「嫌いになってしまう瞬間」が、何よりも死ぬほど怖かったんだ。相手を憎みたくないから、大好きなままでいたいから、だから私は必死に物分かりのいい『いい子』の振りを引き受けて、一人で破裂するまで我慢を溜め込んでいたんだ。
点と点が一瞬で繋がり、胸の奥を塞いでいた暗い霧が、もの凄ばじい勢いで晴れていく。
「それだけだ」
西部はそれだけを言い残し、煙草を消して、淡々と店の中へと戻ってしまった。
その重い鉄の扉を見送りながら、アカネの目から、今度は全く違う涙が溢れ出て止まらなかった。
ずっと自分を縛り付けていた依存体質という名の呪いの、本当の正体を、あの人は一瞬で暴いてくれた。スッキリとした解放感の中で、アカネは声を殺して思い切り泣いた。
もう大丈夫だ、と、自分の足が確かに地面を捉えた感覚があった。
後日。昼下がりの商店街、西部の店のカウンター。
アカネは、すっかり軽くなった心で、納品書に目を落としている西部の元へと歩み寄った。
「西部さん、この前のことなんですけど」
「何の話だ」
「この前の言葉のおかげで、自分の気持ちがちゃんと整理できました。私、嫌われるのが怖かったんじゃなくて、大好きな人を嫌いになるのが怖かったんだって気づけました。だからもう、勝手に我慢して自爆したりしません。本当に、ありがとうございました」
晴れやかな笑顔で一礼し、自分の席へと戻る。
その背後で、西部が一瞬の沈黙のあと、「……は?」と本気で困惑したような、低くて不機嫌な声を出すのが聞こえた。
そこへ、店の裏手から自販機で買った温かい缶コーヒーを手にしたタカシが、勝手知ったる様子で顔を出した。
「いやー、何言ったか知らねぇけど、結果的に合ってたじゃん! アカネちゃん、めちゃくちゃ元気になってんぞ?」
「俺はそんな話してねぇぞ」と、西部がタカシを睨みつける声が追いかけてくる。「あいつ、自分で勝手に別の答え出して、勝手に納得して帰っていった。意味が分からん。俺が言ったのは物理的な拒絶のタイミングの話だ」
「でもさ、結果オーライだし、西部さんのおかげじゃん」
背後で繰り広げられる二人の噛み合わない会話を聞きながら、アカネはふっと、温かい缶コーヒーを両手で包み込んで小さく笑った。
(いいえ、西部さん。私には、ちゃんと伝わりましたから)
西部がどんなつもりで言ったのかなんて、もうどうでもよかった。あの男は、ただそこに転がっている事実を、観測者として淡々と差し出してくれただけ。それを自分の形に仕立て直して、救いとして受け取ったのは、他でもない自分自身だ。
「それは, あいつが自分で勝手に頑張っただけだろ。俺は何もしてねぇ」
西部のそのぶっきらぼうで、冷たいツッコミの言葉が、今のアカネの耳には「お前は自分の力で立ち上がったんだ」という、これ以上ない最高の肯定として響いていた。
いつものようにアパートへと帰る道すがら、タカシの馬鹿みたいな笑い声が夕方の商店街に響き渡る。
完全に分かり合えたわけじゃない。すれ違ったまま、それでも、この不器用な優しさが溢れる世界の中で、アカネはもう一度、一歩を踏み出すことができた。




