『噛み合わない分水嶺』前編
深夜。西部の営む店の前。人通りの途絶えた商店街は、等間隔に並ぶ街灯の青白い光だけが寂しく路面を照らしていた。近くの自動販売機が、誰もいない闇の中で「ブー」と低い稼働音を響かせている。
その冷たいシャッターの脇に、アカネが膝を抱えて座り込んでいた。その横顔には、自分の内側に潜む「何か」にひどく怯えているような、ひどく面倒な気配がべっとりと張り付いている。
西部は店の勝手口から外へ出ると、ポケットからクールのパックを取り出し、一本に火をつけた。メンソールの鋭い煙が、夜の乾いた空気に流れていく。
「……西部さん」
アカネが、微かに震える声で呟くように言った。
「私って、結局また同じなんですかね。どれだけ気をつけても、結局また誰かに依存して、重くなって、最後は破裂しちゃうのかな……」
西部は煙を吐き出し、冷めた目で彼女を見下ろした。
その手の悩みに対する興味は、一滴も持ち合わせていない。ただ、彼女が日々繰り返している「限界まで我慢して、ある日突然キャパシティを超えて自爆する」という行動パターンは、単純に構造としての効率が悪すぎる。
「違うだろ」
西部は短く言った。
「え……?」
アカネが、涙の滲む目で弾かれたように顔を上げた。
西部は壁に背をもたせ、淡々と事実だけを口にする。
「お前さ。捨てられるのが怖いんじゃない」
アカネが息を呑む。
「自分が誰かを嫌いになる方が怖いんだよ」
西部の脳裏には、過去に見てきた別の誰かの姿が、クールの煙の向こうに淡々と浮かんでいた。
昔も見た。全く同じタイプだ。
自分の周りに適切な境界線を引かない。だから他人が自分の領域に土足で踏み込んでくるのを止められない。そうして不満や違和感を限界まで溜める。そしてある日突然、耐えきれなくなって、それまで築いてきた関係も環境も、最後に全部捨てる。
毎回同じだ。壊れる場所が違うだけで、手順は変わらない。
目の前のこいつは、ただそれだけのことをしている。
もっと手前で小出しに拒絶を処理していれば、そんなエラーは起きない。
「それだけだ」
西部は短くなったクールを携帯灰皿へ放り込むと、それ以上は何も言わず、さっさと店の中へと戻り、重い鉄の扉を閉めた。
後日。昼下がりの商店街、西部の店のカウンター。
アカネが妙にすっきりとした、憑き物が落ちたような顔で西部の前に歩み寄ってきた。
「西部さん、この前のことなんですけど」
「何の話だ」
西部は、納品書に目を落としたまま生返事をする。
「あの店先での言葉のおかげで、ずっと絡まっていたものが、やっと整理できたんです。私、嫌われるのが怖いんじゃなくて、大好きだった人を自分の心の中で嫌いになっちゃう、あの瞬間の変化が怖かったんだって気づけました。だから必死に我慢して……でも、もう自分の力でその恐怖と向き合えそうです。本当に、ありがとうございました」
綺麗に頭を下げて去っていくアカネの背中を、西部は数秒間の完全な沈黙ののち、怪訝そうに見送った。
「……は?」
西部は眉を不機嫌そうにひそめる。
「いや……俺、そんな話してねぇぞ」
あいつは自分で勝手に別の答えを出して、勝手に納得して帰っていった。意味が分からない。心の変化だの、大好きだった人への恐怖だの、そんな情緒の話はしていない。俺が言ったのは、境界線を引けない人間が自爆するまでの、ただの事実の蓄積の話だ。
西部は、心底うんざりしたように新しいクールに火をつけ、吐き出した煙の向こうで冷たく呟いた。
「……それは、あいつが自分で勝手に頑張っただけだろ。俺は何もしてねぇ」




