『最初の挙手 ── 背負ったものの重さと夜風』前編
世話になった土建会社の社長が倒れた。
命は助かったものの、頭の血管をやられたらしく、医師からは現場復帰はまず不可能だと告げられた。
事務所に集まった従業員たちは、誰もが床の木目を睨んだまま黙り込んでいた。このまま廃業にするか、あるいは誰かが泥をかぶって引き継ぐか。重苦しい沈黙が、古い石油ストーブの匂いと一緒に室内に淀んでいる。
その沈黙を叩き割ったのは、カズマだった。
「じゃあ俺がやる」
誰よりも早く、誰よりも勢いよく、そして、誰よりも何も考えずにカズマは立ち上がった。
皆が驚いた顔で自分を見上げている。その視線が、その瞬間だけはどこか気持ちよかった。
最初は、それで押し通せると思っていた。
社長は病室で「お前なら任せられる」と涙ぐんで笑い、先輩たちも「カズマがその気なら、俺たちもついていく」と肩を叩いてくれた。
だが、現実は数週間遅れで、怒涛の濁流となってカズマの首元まで押し寄せてきた。
銀行の融資手続き、取引先への挨拶回り、資材業者との価格交渉、社会保険、税金、労災の書類、精度を求められる現場の段取り、そして何より、自分を信じて残ってくれた従業員たちの毎月の生活。
文字の詰まった書類の山を前にするたび、目の前がチカチカとした。
ある夜。事務所の裏手、自販機の灯りの下で、カズマは冷えた缶コーヒーを握りしめたまま、隣に立つサトシに声を絞り出した。
「なぁ……」
「俺、もしかしてとんでもねぇこと言った?」
今さらだった。あまりにも遅すぎる自覚だった。
本当は、今すぐにでも全部放り出して逃げ出したかった。
病院へ行って社長の嬉そうな顔を見るたび、あの事務所で「俺がやる」と大見得を切った数週間前の自分を、殴り飛ばしてやりたくなる。
だが、従業員たちの安心しきった顔を見てしまうと、もう一歩も後ろには引けない。自分でかけた呪縛のせいで、余計に逃げ道が塞がれていく。
帰り道。街灯だけが等間隔に並ぶ、誰もいない商店街の真ん中で、カズマはついに足を止め、頭を抱え込んだ。
「……やべぇ」
「マジで怖ぇ」
人生で初めて、ステゴロの喧嘩の何十倍も恐ろしいものが、この世にはあるのだと知った。




