『ジュンと、許せない女』後編
雨上がりの湿った空気が、開いた引き戸から店内に流れ込んでくる。入ってきた女の人は、この商店街には少し不釣り合いな、高いヒールの音を響かせてカウンターに座った。
「あ、久しぶり。……ねぇ、サトシ元気にしてる?」
女の人が軽い調子でそう言った瞬間、隣にいたミノリは背筋にゾクッとするような冷気を感じた。
「……いらっしゃいませ。ええ、元気にしてますよ」
そう微笑んだジュンさんの横顔、穏やかで優しい声。なのに、何かが決定的におかしかった。いつもなら店全体を包み込むようなジュンさんの温かい空気が、一瞬でシャッターを下ろしたように消え失せている。
ミノリは、その異様な気配の正体を探るように、じっと二人のやり取りを見つめた。
「あの頃のサトシ、本当に優しかったよね。ほんと面倒見よくてさ」
カウンターの向こうで、女の人は楽しそうに昔話を続けている。
ミノリは、ルミの言葉そのものよりも、ジュンさんが一度も「サトシさん」という名前を口に返さないことの方が、どうしようもなく怖かった。
いつもなら、ジュンさんは誰の名前を呼ぶときも、語尾を少しだけ柔らかく跳ね上げる。タカシくんのことも、ミサキちゃんのことも、サトシさんのことも。なのに今日は、女の人がどれだけサトシの名前を出しても、ジュンさんは絶対にその名前に触れようとしない。まるで、その三文字を口にした瞬間、店の中にある何かがすべて粉々に壊れてしまうと分かっているみたいに、冷徹に、不自然なほど綺麗にスルーしている。
ミノリの視線は、途中からルミの顔を離れ、ジュンさんの手元ばかりを追ってしまっていた。
トツ、とルミの前に皿を置く指。
湯呑みを持つ手。
箸をトントンと揃える動き。
怒鳴っているわけじゃない。笑顔も崩れていない。お皿の置き方だって、決して乱暴なんかじゃない。なのに、そのすべての所作が、普段のジュンさんからは考えられないほど「静か」だった。一切の無駄な摩擦がなく、まるで音を立てることそのものを拒絶しているかのような、精密すぎる動き。
そのあまりの静けさが、逆に狂気じみた凄みとなって、ミノリの肌を粟立たせた。
女の人が席を立って店を出ていくまで、その張り詰めた空気は一ミリも緩まなかった。
閉店後の厨房には、冷たい水の音だけが寂しく響いていた。
ミノリはジュンの少し後ろに立ち、その背中を恐る恐る見つめながら、ずっと堪えていた言葉を口にした。
「……ジュンさんって、怒るんですね」
問いかけると、ジュンさんは少し困ったように笑って振り返った。いつもの、ミノリの知っている優しい笑顔だった。
「そりゃ怒るよ。私だって人間だもの」
ジュンさんは優しくミノリの頭を撫で、それから静かに言った。
「……怒らないのと、許すのは別だから。ミノリちゃん」
アパートへの帰り道、雨上がりのアスファルトに街灯が滲むのを見ながら、ミノリはその言葉を反芻していた。
ミノリにとって、ジュンはずっと「怒らない人」だった。だから今日の静かな怒りが分からなかった。でも、出来事を最初から思い返して、ようやく気づく。本当に本気で怒っている人は、大声を出すんじゃない。これ以上、大切なものを汚されないために静かになるのだ。優しい人=何でも我慢して許す人だと思っていたけれど、そうじゃない。本当に優しい人は、守りたいもののために、ちゃんと怒れる人なんだ。
木造アパートの、いつもの古びた引き戸を開ける。
「おー! おかえり! 遅かったな!」というタカシの馬鹿みたいな大声。「うるせぇな、近所迷惑だろ」というミサキの怒鳴り声。そして、「あ、おかえり」と、ラッキーストライクの煙を揺らしながら少しだけ目を細めるサトシの、不器用な笑い声。
その暖かさの中に溶け込みながら、ミノリはサトシの姿を盗み見て、ふと窓の向こうの夜の気配へと視線を戻した。
サトシさんの笑い声を聞きながら、胸の奥では、やっぱりまだ少しだけ「ジュンさんのあの静かな怒り」を思い出して、怖いと思ってしまう。あの許せないという想いは、きっとこれからも完全には消えないし、明日も同じように抱えていくのだろう。
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でも、窓の向こうを見つめるミノリの心は、不思議と軽かった。
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(あの“怖い”を、もう昔みたいに、隠さなくていい気がした)
完全に克服できたわけじゃない。その怒りも傷も抱えたまま、それでもこの日常を大切にしていく。ミノリは「怒り」もまた、誰かを大切に想うからこそ生まれる感情なのだと初めて知り、少しだけ強くなった心で、いつもの騒がしい輪の中へと歩み寄っていった。




