『ジュンと、許せない女』前編
雨上がりの夕方。アーケードの屋根から滴る水滴が、アスファルトを不規則に叩いている。
定食屋『エデン』の暖簾をくぐり、派手な香水の匂いと共に一人の女が入ってきた。その瞬間、厨房で注文を取ろうとしたジュンの動きが、まるで見えない氷に閉じ込められたかのように凍りつく。
ルミ――。
忘れるはずもなかった。サトシがまだ夜の街の深い場所にいた頃、何度も彼に泣きつき、その底なしの優しさに寄りかかり続けて、結果的に彼を削り続けた女だ。他の住人たちは誰も知らない。だが、ジュンだけは見てきたのだ。サトシが「誰かを見捨てられない」という呪いのせいで、どれほどボロボロになり、壊れる寸前まで他人を抱え込んでしまったかを。
ルミは、メニューも見ずに軽い調子で言った。
「あ、久しぶり。……ねぇ、サトシ元気にしてる?」
ジュンは完璧な角度で口角を上げ、いつもの笑顔を作った。
「……いらっしゃいませ。ええ、元気にしてますよ」
そう答えるジュンの目は、一度も笑っていなかった。
「あの頃のサトシ、本当に優しかったよね」
ルミは頼んでもいない昔話をケラケラと笑いながら始めた。
「ほんと面倒見よくてさ。私があのとき寂しいって言ったら、夜中でもいつでもチャリで駆けつけてくれて。私、結構助けられたんだよね」
その言葉を聞いた瞬間。ジュンの脳裏に、夜明け前の冷たい路地裏で、疲弊しきって煙草を吸うサトシの姿が鮮明に蘇る。
『……また呼び出されちゃってさ』
そう言って、充血した眠っていない目で不器用に見せていた、あの男の消え入りそうな笑顔。
その過去の痛みが、今のルミの「搾取した側の無自覚な言葉」と重なり、ジュンの胸の中で黒い炎になる。
けれど、ジュンは怒鳴らない。皿を乱暴に置くこともしない。ただ、ルミの前に皿を置く指先にだけ、ほんの少し、肉眼では分からない程度の力を込めた。
店には入れても、自分たちが大切に守っている『エデン(楽園)』という内側の聖域には、一歩たりとも踏ん込ませない。そんな、冷たくて硬い境界線を、ジュンは静かに引き続けていた。
ルミが去り、閉店後の静まり返った店内で、ジュンは蛇口から流れる水に手をさらし、洗い物をしていた。隣に立つミノリの気配を感じながら、水の音に混じるような静かな声で言う。
「……あの人が、特別に悪い人間だとは思わない。きっと、彼女なりに必死だったんだとは思う」
真っ白な泡にまみれた皿を擦りながら、ジュンは濡れた指先を強く握りしめた。
「でもね。サトシが一番苦しくて崩れそうだった時に、彼をただの便利な道具みたいに扱い、削っていった人たちのことだけは。私は、多分、一生許せない」
それは、ジュンが初めて口にした、凍えるような静かな怒り。
サトシの隠された痛みを、ずっと近くで、誰よりも特等席で見つめ続けてきた人間にしか持てない、祈りみたいな感情だった。




