『言葉にならないもの』前編
閉店後の『エデン』。
薄暗い白熱灯だけが灯るカウンター席で、西部はいつも通り、手元にあるガラスの灰皿の縁を、長い指先で規則正しくトントンと叩いていた。
その乾いた音が、静まり返った店内に小さく響く。
「つまり、お前は“期待”ってやつを怖がってるんだろ」
西部の低く平坦な声が、カウンターの向こう側へと投げられる。向けられた先のアカネは、持っていた布巾を握りしめたまま、ぽかんと大きな目を丸くして瞬かせた。
「……え?」
「だからさ。誰かに必要とされたり、頼りにされたりすると、お前の中でそれが自動的に“応えなきゃいけない義務”に変換される。その見えない圧力が、お前は昔から大嫌いなんだろ」
「え、いや……えっと……」
アカネは完全に処理が追いつかないという風に困り果て、隣の席で静かにグラスを傾けていたジュンへと助けを求める視線を送った。ジュンもまた、困ったように肩をすくめながら、「うーん」と苦笑いを返すことしかできない。
西部の話は、いつも難しい。
いや、使っている言葉自体はどれも平易で、子供でも分かるようなものだ。ただ、彼が口にする「結論」にたどり着くまでの思考回路が、常人のそれとはあまりにも飛びすぎていて、周囲の人間から見ると「なんで今その一言からそこに辿り着いたんだ?」という戸惑いの方が勝ってしまうのだ。
西部はそんな周囲の困惑を気にする風でもなく、淡々と、確信を突くように言葉を続けた。
「お前さ、店で頼られそうになると、急にスイッチが入ったみたいに頑張りすぎるじゃん」
「それは……まぁ、しっかりしなきゃって思うから……」
「でも、本音のところでは、誰かに依存されるのが死ぬほど怖いんだよ。昔、自分が誰かに心底依存して、その結果として取り返しのつかないくらい痛い目を見たからな」
その瞬間、アカネの身体が完全に硬直した。
図星だった。かつて彼氏に「重い」と言われ、世界が壊れてしまったあの夜の傷。誰にも触れられたくない、自分でも言語化できていなかったはずのその痛みの中心を、西部は事もなげに指差していた。
「……な、何で、そんなことまで分かるんですか」
「顔」
西部はそれだけを言って、咥えた煙草にライターで火をつけた。即答だった。
ミノリなんかは時々、西部のこの「見透かすような言葉」の意図を正確に理解できる。サトシもまた、同じような痛みのグラデーションを知っているから割と分かる。ジュンもその鋭さを半分くらいは察している。
けれど、大抵の普通の人間は、西部のこの容赦ない言葉のナイフを聞くと、ただただ「怖っ……」と身をすくめるしかなかった。だから商店街の若い連中の間では、彼は密かに『人の内側を勝手に読み取る、底の知れない怖い男』として恐れられていたのだ。
その時だった。
「うおーーーーっ! 腹減ったーーー!!」
厨房の奥の引き戸がドタドタと勢いよく開き、ヨレヨレのスウェット姿をした大男がのっそりと姿を現した。タカシだった。
西部はそれを見た瞬間、あからさまに嫌そうな顔をして、眉間に深いシワを刻んだ。
「うるせぇな。静かに喋れ」
「あ、西部さん、来てたんすか! チィース!」
タカシは西部の嫌悪感など一切お構いなしに、カウンターの空いている席へとドカッと腰を下ろすなり、つい一秒前まで誰も割り込めなかったはずの重苦しい会話の中に、当然のような顔をして首を突っ込んできた。
「え? でもそれ、俺なんか普通に分かりますよ」
その一言に、店内の全員の動きがピタリと止まった。
「……は?」
西部が、細いフレームの眼鏡の奥の目を鋭く細め、タカシを睨みつける。
しかし、タカシはそんな西部の視線の威圧感にも気づかない様子で、ごく当たり前の日常会話でもするみたいに、あっけらかんと言い放った。
「だってアカネちゃんってさ、“頼られるのが嫌”なんじゃなくて、本当は“見捨てられるのが怖い”から無理して動いちゃうタイプでしょ?」
今度は、アカネが息を吸ったまま完全に固まった。
「だから、期待されると必要以上に頑張りすぎちゃうし、相手から『もうお前はいらない』って言われる前に、先回りして何でもかんでも一人でやろうとしちゃうっていうかさ」
静寂。
夜の定食屋の中を、ただ冷蔵庫の低いブーイングのような作動音だけが満たしていく。
ジュンがゆっくりと瞬きをし、ミノリが呆然としたように小さく「……え」と呟いた。
そして、西部だけが、咥えていた煙草を灰皿に置き、生まれて初めて見るような「真顔」で、目の前の大男を凝視していた。
そこからの数分間は、その場にいる全員にとって、ある種の地獄のような時間だった。
タカシは、カウンターの上の冷水ポットから自分のコップに水を注ぎ、喉を鳴らして飲み干しながら、まるで明日の天気予報でも告げるようなトーンで、流れるように言葉を紡いでいった。
「ミノリちゃんはさ、親とか周りの大人に“怒られる”こと自体が怖いんじゃなくて、“ガッカリされる”のが一番怖いから、いつも困らせないように笑ってるタイプじゃん」
「……っ、」
ミノリが小さく息を呑む。
「で、ジュンさんは、誰に対してもめちゃくちゃ優しいけど、それは『優しい人』だからじゃなくて、最初から“他人に何も期待してない”から、どんなことされても怒らずに優しくできるタイプでしょ?」
「……はは、手厳しいな」
ジュンが、少しだけ引きつった笑顔で頭を掻いた。
「サトシさんは、あの女の子を“見捨てない”んじゃなくてさ。自分が昔、世界の全部から“見捨てられた側の人間”だったから、同じような奴をどうしても放っておけないだけなんすよ」
全部、合っていた。
彼らが何年もかけて隠し、あるいは気づかないフリをしてきた心の最暗部を、タカシは正確に、一切の狂いなく撃ち抜いていた。
しかも最悪なことに、タカシ本人には、自分が彼らの心理を精密に「分析している」という自覚が、これっぽっちも無かった。
「……お前、何なんだ」
西部が、地を這うような低い声で呟いた。
タカシはプラスチックのコップを置いたまま、きょとんとして首を傾げる。
「え? 何がすか?」
「何故、それが分かる」
「いや、何故って言われても……なんか、毎日みんなのこと見てたら、普通にそう見えません? 分かるっていうか、そういう空気が出てるっていうか」
西部は、初めて自分のこめかみを指先で強く押さえ、深く頭を抱えた。
自分は長年、人間という複雑で面倒な生き物を理解するために、膨大な人間観察と、心理学的な経験則と、そして自分自身がこれまでに負ってきた無数の傷をすり潰して、ようやくそれを「言葉」として編み出してきた。
だが、目の前にいるこの大型犬のような男は、そんな面倒なプロセスを一切無視して、すべてをその肉体の“感覚”だけでやってのけている。
「怖っ……」
アカネが、今度は西部ではなく、タカシに対して本気で引いたような声を漏らした。
「でもさ、タカシくん。アナタ、他人のことはそうやって気持ち悪いくらい全部分かるのに、自分のことに関しては、驚くほど何も分かってないよね」
ジュンが、どこか諦めたような苦笑いを浮かべながら言った。
「あー、それは確かにあるな」
いつの間にか店の奥に現れ、廊下の壁に寄りかかっていたサトシが、嗅ぎ慣れたラッキーストライクを咥えたまま、静かに頷いた。
「コイツ、他人の孤独とか、壊れかけの気配には異常なほど敏感ななくせにさ。自分が一番ボロボロで、今にも崩れ落ちそうなことだけは、自分のことなのに全く分かってねぇんだよ」
「えぇ!? 俺、そんなにボロボロに見えます? 毎日めっちゃ元気っすよ!?」
タカシが不満そうに声を上げるが、その言葉に対して、サトシも、ジュンも、アカネも、ミノリも、誰も何も返さなかった。ただ静かに黙り込んだ。
西部はしばらくの間、無言でタカシのその間抜けた顔を見つめていたが、やがて、喉の奥を震わせるようにして小さく笑った。
「……なるほどな」
初めて、この男の正体を本当の意味で理解した。
この男は、頭が悪いんじゃない。ロジックを組み立てる脳の回路よりも先に、
“剥き出しの感情だけで、人の心をダイレクトに理解している”のだ。
だから、理屈を全部すっ飛ばす。
だから、その言葉は誰の防御壁も無視して、真っ直ぐに、一番痛いところへ届く。
そして――だからこそ、この男は誰よりも危うい。
西部は灰皿の上で煙草を咥え直し、ぼそりと、吐き出す煙に混ぜるようにして呟いた。
「お前、犬っていうかさ」
「はい?」
「……災害みてぇな奴だな」
「ええっ!? 何すかそれ、絶対に悪口じゃないすか!」
夜の定食屋の店内に、ジュンの吹き出す小さな笑い声が、雨上がりの夜風のように静かに響いた。




