『捨て猫と、遠回りな二人』後編
時計の針を、ほんの数時間前、雨が降り始めた昼下がりに巻き戻す。
まだタカシが通りかかる前。サトシは空き地の前で足を止め、段ボールの中の猫を見つめていた。
サトシは、猫を拾い上げたりはしなかった。抱きしめてやることも、可哀想にと声をかけることもしない。ただ、ポケットからスマホを取り出すと、煙草を咥えながら何件か、短い連絡を入れた。
地元の知り合いの動物病院。
元・保護団体にいたという、古い知り合いの男。
それから、ジュンとミサキ。
「あぁ、サトシ。どうしたの?」と、すぐに出たジュンの声。
「空き地に猫。タカシが通りかかったら十中八九拾うから、受け入れ先だけ作っといて」
「ふふ、分かりやすいね。了解、私のルートでも当たってみる」
サトシは必要最低限のドミノだけを指先で弾くと、スマホをポケットに戻し、そのまま何事もなかったかのようにその場を立ち去った。猫は、放置されたままだ。冷徹に見えるかもしれない。けれど、サトシはこの街の人間たちの「動き方」を、誰よりも理解していた。
現在。夜の帳が下りた商店街のベンチ。
泥だらけで座り込むタカシの前に、サトシはしゃがみ込み、買ってきたばかりの温かい缶コーヒーをタカシの冷え切った手に握らせた。
「ほら、飼い主見つかったよ」
サトシはいつものぶっきらぼうなトーンで言った。
「……は?」
タカシはコーヒーの温かさに驚きながら、間抜けな声を上げた。
「ミサキの知り合いの動物病院の先生が、ちょうど引き取り手を探してたんだってさ。ジュンが今、車で迎えにきてる。そこに入れれば、一週間後にはちゃんとした里親のところに行けるよ」
実は、すべては最初から終わっていた。タカシが雨の中を走り回るずっと前から、この猫の行き先は確保されていたのだ。
それを理解した瞬間、タカシの顔にブワッと血が上った。
「だったら! だったら最初から先に言えよ! 俺、めちゃくちゃ商店街中走り回って、断られまくって……意味ねぇじゃんか!」
声を荒げるタカシ。しかしサトシは、怒るタカシを宥めるでもなく、静かに煙草に火をつけた。白い煙が雨の夜空に消えていく。
「だってお前、自分で探したかったでしょ」
「……え」
タカシの言葉が、ピタと止まる。
「俺が最初に『もう行き先決まってるから』って渡してたら、お前、ただの運搬係じゃん。それじゃ納得いかねぇだろ。自分で走って、頭下げて、傷ついて……そこまでやって初めて、お前がその猫を救ったって言えるんじゃねぇの」
サトシはタカシの胸元で小さく鳴いた子猫の頭を、細い指先で一度だけ、不器用になでた。
「無駄じゃなかったじゃん。お前が走ったから、そいつは今、生きてる」
「……」
タカシは何も言えなくなった。じわじわと、サトシの言葉の意図が体の中に染み渡っていく。
自分のした空回りは、無駄なんかじゃなかった。この男は、自分の「格好つけたいプライド」も「お節介な優しさ」も、全部全部分かった上で、傷つかないためのセーフティネットだけを裏で張って、黙って走らせてくれていたのだ。
遠くから、プップーと車のクラクションが鳴った。ジュンの運転する軽自動車が、ハザードを点滅させて停まる。
「タカシくん! 猫ちゃん預かるね!」と、助手席からミサキが身を乗り出してバスタオルを広げている。
「……おう、頼んだ」
タカシは立ち上がり、今度はしっかりと、自分の手で子猫をミサキへと手渡した。
車が走り去っていくのを、タカシは少しだけすっきりした顔で見送る。
「……サトシ」
タカシがバツが悪そうに頭を掻きながら、隣の男を見る。
「サンキューな」
「別に」
サトシは吸い殻を携帯灰皿に放り込むと、それ以上は何も言わず、いつも通りの気怠げな足取りでアパートの方へと歩き出した。
誰も英雄にならない。
表で泥を塗って突っ走る男と、裏でその泥をそっと拭うためのタオルを用意しておく男。
そんな、言葉にすらならない遠回りな優しさが噛み合って、この街のエデンは、今日も小さな命を一つ、温かい場所へと送り届けていた。




