『ジュンがいない日の裏側』後編
「だから! あれは俺が明日楽しみに食おうと思ってたプリンだったんだって!!」
夜。タカシの部屋では、今日も今日とて騒がしい言い争いの声が響いていた。
「名前書いてない方が悪いでしょ!? 冷蔵庫に入ってたら共有財産だと思うじゃん!」
ミサキもベッドの上でクッションをぎゅっと抱えながら、負けじと怒鳴り返す。
「たかがプリン一個でケチケチしないでよ! 減るもんじゃないし!」
「減ってるわ! ってか完全に無くなってんだろ、俺の腹に入るはずだったやつが!」
ハァ? とミサキがさらに顔をしかめた、その時だった。
彼女の脳裏に、昼間タカシから聞いたという、サトシのあの妙に真面目なアドバイスが突然フラッシュバックした。
――プリンはな、最初から二個買っておくもんだ。
「……変なの」
思わず、怒りの途中でぽつりと声が漏れる。
「あ? 何がだよ」
「いや……サトシさんって、ああいうこと言う人だったっけ、と思って」
タカシは怒鳴りかけた口を閉じ、太い腕を組みながら、少しだけ天井を見上げる顔をした。
「んー……まぁ、確かに今日は変だったな。会話のキャッチボール全部暴投だったし」
「ジュンさんがいないからじゃない?」
ミサキが何気なく言うと、タカシは「……そんな変わるか?」と呟いたまま、珍しく即答せずに黙り込んだ。
しばらくの沈黙の後、タカシは冷蔵庫のドアをバタンと閉め、背中で寄りかかりながら、ぽつりと溢した。
「昔さ」
「?」
「サトシさん、もっと酷かったんだよ。俺がこの街に来たばっかの頃」
ミサキは目を瞬かせた。いつもアパートのソファで静かに煙草を燻らせ、自分たちの面倒を飄々と見てくれる今のサトシしか知らない彼女には、想像もつかない言葉だった。
「誰とも関わんねぇし、飯も食ってんだか食ってねぇんだか適当だし、寝てんのか起きてんのかも分かんねぇ。いつ消えてもおかしくないような目してたんだ」
タカシは自分の頭をガシガシと大きな手で掻いた。
「でも、ジュンさんが来てからさ、なんか……ちゃんと“ここ”にいる感じになったんだよな。地面に足が着いたっていうかさ」
その言葉を聞いて、ミサキは昼間のサトシの奇妙な空回りをもう一度思い返した。
空っぽのパイプ椅子を何度も見ていた横顔。辻褄の合わない返答。増え続ける煙草の吸殻。
あれは、ただ機嫌が悪かったわけでも、体調を崩していたわけでもないのだ。
「……なんかさ」
ミサキは小さく笑った。
「夫婦っていうより、“片方抜けると建物ごと歪んじゃう柱”みたいね、あの二人」
「お前、分かるような分かんねぇような例えすんなよ……」
タカシは呆れたように笑ったが、その目は少しだけ真面目な光を宿したまま、静かに頷いていた。
数十分後。「ちょっと待ってろ」と部屋を出ていったタカシが、コンビニの袋を下げて戻ってきた。机の上に無造作に置かれたのは、全く同じ種類のプリンが二個。
「ほら」
「……え、二個?」
「サトシさんが言ってたからな」
タカシはバツが悪そうにそっぽを向き、照れ隠しに鼻の頭を指で擦った。
「最初から二個買っとくもんらしい。これなら文句ねぇだろ」
ミサキは一瞬きょとんとして、それから我慢できずにベッドの上で吹き出した。
「何それ! 影響されすぎでしょ、単純バカ!」
「うるせぇな! いいから食えよ!」
二人で並んでスプーンを動かしながら、ミサキは甘いプリンを口に運び、ぼんやりと思った。
サトシとジュンは、多分、お互いにすごく不器用なのだ。
けれど、ああいう風に「誰かが隣にいること」を、ひとつの呼吸のように、当たり前の身体の仕組みとして刻んで生きている。だから、たった一日片方がいなくなるだけで、部屋の空気の形まで歪んでしまう。
共鳴し合う二人のエデン。
その静かな灯りは、本人たちだけでなく、こうして自分たちのくだらない夜にまで、小さく、優しいお裾分けのように繋がっているのだった。
「一個ちょうだい」
「やらねぇよ、これ俺の!!」
窓の外では、商店街の夜が、いつも通りに静かに更けていった。




