『ジュンがいない日の裏側』前編
夜九時過ぎ。商店街の端にある小さな惣菜屋では、アカネが最後のシャッターを半分だけ下ろしていた。
「……あれ? アカネちゃん、今日はもう閉めるの? 珍しいね」
向かいの八百屋のおばちゃんが、片付けの手を止めて驚いたように声を掛ける。
「はい。ちょっと用事があって。お疲れ様です!」
アカネはエプロンを外しながら、小さく苦笑した。
昼間、アパートへ源蔵大将からのチャーシューを届けにいった時のサトシの様子が、どうしてもずっと胸に引っかかっていたのだ。
会話は妙にズレるし、煙草の量は異常に増えている。終始ぼんやりとしていて、上の空だった。
けれど、何よりもアカネの胸をざわつかせたのは、その時のサトシの表情そのものだった。
――あれは、誰かを待っている人の顔だ。
普段のサトシは、他人に依存している姿を絶対に見せない。常に一歩引いて、商店街の迷子たちを静かに受け止める側の人間だ。なのに今日の彼は、部屋の空気そのものが落ち着かないと言いたげに、ひどく拠り所なく、脆そうに見えた。
「……ジュンさん、今日いないんだっけ」
アカネはぽつりと呟き、店の電気を落とした。あの部屋の、いつもと違う奇妙な綻びが気になって仕方がなかった。
帰り道、アカネはコンビニの袋を提げながら、古いアパートの前を通りかかった。
見上げると、二階の窓にはいつもより少し薄暗い灯りがついている。
「……いるのかな」
なんとなく胸騒ぎがして、アカネはギシギシと音を立てる鉄骨階段を上がった。
サトシの部屋の前まで行き、様子を窺うようにドアをノックしようと手を伸ばした――その瞬間だった。
薄い扉の向こうから、低く掠れた男の声が漏れ聞こえてきた。
「……だから、もういいんだって」
アカネは思わず息を止め、伸ばした手を空中で静止させた。
声色が、違った。
いつも商店街で見せる、面倒見が良くて、少し呆れたような、あのお馴染みのサトシの声じゃない。もっと冷たく乾いていて、ひどく疲れていて、何かをとうに諦めてしまった人間の――過去の暗がりに置き去りにされたままの、酷く孤独な声だった。
「俺は別に、今さら――」
そこで言葉が途切れる。
数秒の、肌がひりつくような沈黙。
それから、カチ、と静かにライターのオイルが爆ぜる音が聞こえた。
アカネは小さく息を呑んだ。盗み聞きをするつもりなんてなかった。けれど、今ここでドアを叩いたら、サトシの“決して見てはいけないもの”を暴いてしまう気がした。
商店街のみんなが頼りにしている、優しくて不器用なサトシ。
そして、ジュンだけが知っている、過去の傷に囚われたままのサトシ。
その決して侵してはならない大人の境界線に、自分は偶然、立ち会ってしまったのだ。
アカネは足音を立てないよう、細心の注意を払いながら静かに階段を下りた。
夜の冷気の中、コンビニ袋の中で二つ並んだ温かい肉まんだけが、じんわりと彼女の凍えそうな指先を温めていた。
数十分後。アカネが商店街の静まり返ったアーケードを抜けようとした時、向こうからトレンチコート姿のジュンが歩いてくるのが見えた。夜風の冷たさをまとった彼女は、アカネに気づくと、ふっと足を止めた。
「あれ、アカネちゃん? こんな時間にどうしたの?」
「あ、いや……ちょっと、小腹が空いて買い出しです」
誤魔化すように笑うアカネだったが、ジュンは一瞬だけその表情をじっと見つめ、それからすべてを察したように首を少し傾げた。
「……サトシ、変だった?」
あまりにも正確に図星を突かれて、アカネは目を丸くした。
「え、なんで分かるんですか」
「今日、私いないから」
ジュンはクスッと笑って、当然のように言った。まるで「今日は雨だから傘がいる」と言うのと同じくらい、ごく自然なこの街の法則であるかのように。
アカネは肉まんの袋を指先で弄びながら、少し迷ったあとに、ぽつりと本音を呟いた。
「……サトシさんって、なんか、もっと一人でも平気な人だと思ってました。誰がいなくても、ずっとあの部屋でタバコを吸って、飄々としてるって」
ジュンは少しだけ目を細めた。夜風が、彼女の長い黒髪を静かに揺らす。
「平気だよ、あの人は」
ジュンは柔らかく、けれどどこか砂が混じったような切なさを孕んだ声で笑った。
「一人でも、生きてはいけるの。ずっとそうしてきたから」
彼女は一度言葉を切り、アパートのある夜空の方向を愛おしそうに見上げた。
「でもね。“帰ってくる人”がいると、あの人はちゃんと明日まで生きようとするの。ただ息をして生きてるだけじゃなくてね」
アカネは何も言えなかった。
ジュンが「じゃあね」と歩き去っていく背中を、ただ見送ることしかできなかった。
アパートの二階の古い窓から漏れる灯りが、夜の商店街に、小さく、けれど確かな温かさを持って静かに滲んでいた。




