『ジュンがいない日』後編
同じ日の午後。
サトシが古いアパートで奇妙な空回りを続けていた頃、ジュンは電車を二回乗り継いだ先にある、沿岸の静かな霊園にいた。
海から吹きつける冷たい風が、トレンチコートの裾を小さく揺らす。ジュンは長い黒髪を耳にかけながら、一つの墓石の前に静かにしゃがみ込んだ。
そこは、パートナーであるサトシがかつて、まだあの街に辿り着く前――人生のどん底の時代に命を救われ、そして、どうしても守りきれなかった「恩人」が眠る場所だった。
サトシ本人は、数年前に『もうあそこに行く必要はない』『あの人は、俺のことなんかもう忘れてる』と吐き捨て、それ以来、決してこの場所へは足を向けようとしなかった。
過去の凄まじい罪悪感と、自分だけがのうのうと生き残ってしまったことへの痛みが、彼の足を呪いのように縛っているのを、ジュンは誰よりも理解していた。
だから、彼女は毎年、サトシには何も言わず、たった一人でこの日ここにやってくる。
チッ、と静かな霊園にライターの音が響き、お線香に小さな紅い火が灯る。
細く白い煙が、風に流れて灰色の夜空へと消えていく。
ジュンは墓石に向かって静かに両手を合わせ、そっと目を閉じた。
サトシの代わりに過去を悔やむことも、彼の心にある消えない傷を消してやることも、彼女にはできない。けれど、サトシが「もういい」と諦めて投げ捨ててしまった記憶の端っこを、自分が代わりにここで繋ぎ止めておくことならできる。
(……今年も、サトシはちゃんと生き延びてますよ)
ジュンは心の中で、静かに墓碑に語りかけた。
(相変わらず不器用で、タバコばっかり吸って、商店街の変な人たちに囲まれて。ちゃんとしてないままで、それでもなんとか、息をしてます。……だから、安心して見ててください)
サトシが過去に置いてきてしまった痛みを、ジュンがこうして毎年、一人で静かに引き受けにきている。サトシが今、あの古いアパートで誰かのための優しい逃げ場所として立っていられるのは、その足元を、彼女が誰よりも深く、冷たい泥の中に手を突っ込むような静かな覚悟で支え続けているからだった。
「じゃあ、また来年ね」
ジュンは墓石の冷たい肌を、愛おしそうに優しく撫でると、夕闇に染まり始めた霊園を後にした。
夜十時過ぎ。商店街の夜の匂いを感じながら、ジュンはアパートの階段を上がった。
引き戸を開けると、案の定、サトシはソファに寝転がって、読んでいない雑誌を顔に被せて子供のように強がっていた。
「別に。困る要素なんて何一つない」
サトシの相変わらずのぶっきらぼうな声を聞きながら、ジュンはコートを脱ぎ、ふとリビングの灰皿へと視線を落とした。
いつもならきれいに片付けられている灰皿に、茶色い吸殻が、驚くほどの山を作っている。普段の二倍は優に超えるペースだ。わかりやすすぎるその痕跡に、ジュンの口元が自然と緩む。
ジュンは小さな溜め息をつき、ソファの傍へ足音を忍ばせて歩み寄った。
サトシの顔からそっと雑誌を退けると、サトシは気まずそうに、けれどどこかホッとしたように視線を逸らす。
「……ねぇ、サトシ。タバコ、すごい減ってる」
ジュンは、クスッとからかうように、けれど瞳の奥に溢れんばかりの愛おしさを込めて笑った。
「……そんなに寂しかったの?」
「うるさい。早く風呂入れ」
サトシは再び雑誌を顔に引っ張り戻したが、その耳の裏がほんのりと赤くなっているのを、ジュンは見逃さなかった。
ジュンはそれ以上何も言わず、台所へ向かって、今度は「二杯分」のコーヒーを淹れる準備を始めた。お湯が沸く静かな音が、部屋の静寂を温かく上書きしていく。
――ジュンという女性は、サトシの過去の傷を無理に暴こうとはしない。ただ、彼が自分自身で背負いきれなくなった古い痛みを、本人が気づかないところで、静かに代わりに抱きしめ続けている。
サトシが他人に差し出す、傷ついたままで立ち止まることを許す『絶対的な肯定』。
そのサトシの足元を、目に見えない祈りで誰よりも深く支え続けるジュンの『静かな覚悟』。
どちらが欠けても成り立たない、共鳴し合う二人のエデンは、こうして誰も知らない夜の片隅で、お互いを静かにすくい上げ合っている。
アパートの窓から漏れる二つの影の灯りが、今夜も街の片隅を、静かに、温かく満たしていた。




