『ジュンがいない日』前編
いつもなら、古い目覚まし時計がジリリと鳴り出す前に、狭い台所からかすかな金属音が聞こえるはずだった。
換気扇が低く回る振動、安物のケトルがシュンシュンと白い湯気を吹き上げる音。そして、低くてどこか落ち着いた、朝特有の少し掠れた彼女の声。
『おはよ、サトシ』
けれど、今朝のアパートの部屋には、ひび割れたような冷たい静寂だけが横たわっていた。
サトシは午前七時にきっかり目を覚まし、ベッドの上で数秒、天井の茶色い木目をじっと見つめた。それから、いつもより少しだけ乱暴に布団を跳ね除けて立ち上がる。
今日は、ジュンが一日いない日だった。
「別に、何が変わるわけでもないけどな」
サトシは小さく呟き、寝癖のついた髪をガシガシと掻きながら台所へ向かった。
コンロに火をつけ、いつも通りにケトルを置く。そこまではルーティンだった。だが、無意識に手が伸びたのは、棚の奥にある自分の分のマグカップ一つだけだった。いつもなら二人のために二杯分セットするはずのコーヒードリッパーを前に、サトシの手がピタと止まる。
「……あぁ、そうか」
スプーンですくったコーヒー粉を、何故かそのままゴミ箱へ落としそうになり、サトシはチッと小さく舌打ちをした。結局、コーヒーを淹れる工程そのものを面倒に感じ、ただの白湯をマグカップに注いでリビングへ戻る。
いつもジュンが腰掛けている、背もたれの禿げたパイプ椅子の上が、ぽっかりと白く空いていた。
昼過ぎ。サトシの部屋には、いつものように商店街の面々が入れ替わり立ち替わりやってきていた。だが、今日のアパートの空気は、どこか奇妙に歪んでいた。
「サトシさん。これ、今日の夕飯の足しにって、来てけろの源蔵大将から預かったチャーシューなんですけど……」
アカネが醤油の匂いのするパックを差し出すと、サトシは灰色の窓の外を見つめたまま、ぼんやりと頷いた。
「ん。……あぁ、洗濯機、回しっぱなしだったな」
「え? いや、チャーシューの話ですよ?」
「……そうか」
さらに数時間後、今度はドタドタと騒がしい足音とともにタカシが乱入してきた。
「サトシさん!! 聞いてくれよ!! ミサキがさ、俺の買ってきたプリンを勝手に食ったってキレてんだけど、これどっちが悪いと思う!?」
普段のサトシなら『お前がもう一個買ってくりゃ済む話だろ』と煙草を燻らせながら一蹴するはずの、いつものくだらない相談。
だが、今日のサトシはパイプ椅子の空白をちらりと見つめた後、ひどく真面目な顔で言った。
「タカシ。……プリンはな、最初から二個買っておくもんだよ。一個しかないから、なくなるんだ」
「……え? いや、そりゃそうだけどさ。……サトシさん、今日なんか変じゃね?」
タカシはデカい身体を縮めて、アカネと顔を見合わせた。
「な? なんか今日のサトシさん、目が泳いでるっていうか、会話のキャッチボールが常に暴投気味っていうか……」
「サトシさん、もしかして体調悪いですか? ジュンさんも今日はお出かけみたいですし……」
「悪くない。至って普通だ」
サトシは二人の執拗な視線を振り払うように煙草に火をつけたが、灰皿には、いつもなら一日で数本しか増えないはずの茶色い吸殻が、すでに小さな山を作りはじめていた。
「お前ら、用がないなら帰れ。煙たいだろ」
そう言って強引に追い払うものの、二人分の足音が階段を下りて消えた後の部屋の静けさは、先ほどよりも少しだけ重く、そしてひどく退屈に感じられた。
夜十時を回った頃。
アパートの古い外階段を上がる、少しヒールの低い靴の足音が近づいてきた。
ガチャリ、と金属音を立てて引き戸が開く。
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃって」
トレンチコートの肩に少しだけ夜の湿り気をまとったジュンが、すまなそうな顔で入ってきた。
サトシはソファに寝転がったまま、さっきから一ページも進んでいない雑誌から視線を上げずに、ぶっきらぼうに言った。
「おぅ。遅かったな」
ジュンは部屋を静かに見回し、台所の流しに残されたままのポツンとした白いマグカップと、ベランダで冷たくなっている洗濯物に目を留めた。それから、ソファのサトシの顔を覗き込んで、すべてを見透かしたような、大人の余裕を含んだ笑みを浮かべる。
「何、サトシ。もしかして、私がいない間、ちょっと困ってた?」
「別に。困る要素なんて何一つない」
サトシはバサッと雑誌を顔に被せ、声を尖らせた。
けれど、その雑誌の陰で、サトシが今日一番深く、胸の奥に溜まっていた重たい塊を解き放つようにゆっくりと長い呼吸を吐き出していたことを、彼女はすべて分かっているようだった。




