『届かなかった「ありがとう」』後編
時計の針を、佐伯先生の転勤が発表された日の夕方へと巻き戻す。
ミノリは、いつもと変わらない気怠げな足取りで、夕暮れの商店街を歩いていた。
その時、冷たい春一番の突風が吹き抜け、路地裏のゴミ箱の横を、一枚の紙切れがひらひらと舞った。
いつもなら見過ごすはずだった。けれど、その紙に印刷された可愛らしいキャラクターの絵柄が、なんとなく目に留まった。ミノリはしゃがみ込み、その紙を拾い上げる。
折り畳まれた便箋の隙間から、幼い、必死に書かれた子供の文字が見えた。
――『先生へ』
ミノリの足が、そこでピタと止まった。
中身を盗み見るような趣味はない。だからそれ以上は開かなかった。けれど、何度も消しゴムで擦られて薄くなった紙の質感を見ただけで、それが「誰かにとっての、どうしても失くしてはいけないもの」であることくらいは、瞬時に理解できた。
翌日の昼下がり。ミノリは用事のついでに、小学校の近くの裏道を通りかかった。
校門から出てくる下校途中の子供たちをぼんやりと眺めていた時、一人の女の子の後ろ姿に目が止まる。
その子が背負うランドセルのサイドポケットに、昨日拾ったものと全く同じキャラクターのシールが貼られていた。
女の子の名前はマナ。
「……あ、手紙、やっぱりない……。どうしよう、なくしちゃった……」
マナは半泣きの声を漏らしながら、何度も何度もランドセルの底を漁っていた。
その泣きそうな横顔と、手元のシール。ミノリの中で、すべての線が一本に繋がった。
(あぁ、あの子のだったんだ)
ミノリはポケットの中の手紙に手を伸ばし、すぐに返してやろうと一歩踏み出した。だが、小学校のチャイムが鳴り響く。今日は佐伯先生の最後の日。すでに校舎の中では、最後のホームルームが始まろうとしていた。
部外者の自分が今から教室に押し入るわけにもいかない。タイムオーバーだった。
結局、ミノリはその手紙を持ったまま、返すこともできずに数日を過ごしていた。
ポケットの中で少し丸まった小さな便箋。返したいけれど、先生はもう学校にいないし、マナに直接渡せば「落とし物をネコババしていた」と思われかねない。
そんなある日、商店街の惣菜屋の前を通りかかった時のことだ。
「そういえば、佐伯先生の残していった荷物、来週まとめて新しい学校へ発送するんだって。八百屋の奥さんがPTAの用事で手伝いに行くらしいよ」
アカネが他のお客さんとそんな世間話をしているのが、ミノリの耳にたまたま届いた。
(……あぁ、なるほど)
ミノリはその日の放課後、ふらりと小学校の事務室を訪れた。
窓口の職員に、ポケットから出した小さな便箋を無造作に差し出す。
「これ、佐伯先生への落とし物。来週荷物送る時に、一緒に混ぜておいてください」
「え? あ、送り主のお名前は……」
「別にいいです」
ミノリはそれだけ言うと、引き止める声を背に、さっさと事務室を後にした。
特別なことは何もしていない。ただ、たまたま持っていた手紙を、たまたま訪れた機会に乗せて、あるべき場所へそっと置いてきただけだった。
夜。古いアパートのサトシの部屋。
ミノリはソファの端に座り、炭酸水のグラスを転がしていた。
部屋の台所でコーヒーを淹れていたジュンが、ふと手を止めてミノリを振り返る。
「マナちゃんに、言わなくていいの? 私が先生に届くようにしておいたよって」
「別に」
ミノリはグラスの氷の音を響かせながら、無表情に答えた。
「マナちゃん、絶対に喜ぶと思うけどな」
ジュンが少しからかうように言うと、ミノリはほんの少しだけ考える素振りを見せ、それから小さく肩をすくめた。
「先生に届いたなら、それで終わりでしょ」
窓の外の商店街。街灯の下を、マナが母親と並んで歩いているのが見えた。
マナの手には、先生からの白い返事の便箋が大事そうに握られている。その顔には、一点の曇りもない、満面の笑顔が咲いていた。
ミノリはその姿を、じっと見つめていた。
静かな沈黙が流れる部屋で、これまでずっと壁に背を預けていたサトシが、ゆっくりと煙草を灰皿に押し付けた。
ジッと音がして、静かに白い煙が消えていく。
サトシは窓の外のマナの笑顔に一瞬だけ視線を向け、それから、いつものぶっきらぼうな声でぽつりと言った。
「まぁ。……届いて良かったな」
それだけだった。
全部分かっているサトシのその一言に、ミノリは少しだけ照れくさそうに視線を落とし、
「……うん」
とだけ、小さく答えた。
誰にも知られなくていい。誰にも褒められなくていい。
ただ、この街の片隅で、届くべき大切な言葉が、届くべき人の元へ届いた。
彼女にとっては、サトシのその短い言葉と、遠くで笑うマナの姿だけで、もう十分すぎるほどに、その心は満たされていた。




