『届かなかった「ありがとう」』前編
三月。春の足音が近づく教室は、卒業式でもないのにどこか落ち着かない、そわそわとした空気に包まれていた。
担任の佐伯先生が、この春で別の学校へ転勤してしまうからだ。
若くて、いつも太陽みたいによく笑う先生だった。
忘れ物をしても頭ごなしに怒鳴ったりしない。クラスの誰かが泣いていたら、授業を止めてでもじっくりと話を聞いてくれる、そんな先生だった。マナは、佐伯先生のことが本当に大好きだった。
前日の夜。マナは学習机に向かい、何度も何度も消しゴムで文字を直しながら、一生懸命に手紙を書いた。
『先生へ
ありがとうございました
わたしは先生がだいすきです』
不器用な文字だったけれど、心からの気持ちを全部詰め込んだ。ようやく完成した便箋を大切に折り畳み、お気に入りのシールで留める。
けれど、当日の朝。
その手紙は、どこを探しても見つからなかった。
何度もひっくり返したランドセルの中にも、机の引き出しの奥にも、家のリビングにも。どこにも、なかった。
学校に着いてからも、マナは必死に鞄を探り続けた。
休み時間になっても運動場には行かず、廊下を走るようにして探した。給食の時間になっても、大好きなメニューの味が全くしなかった。
正式なホームルームが始まり、無情にも時間は過ぎていく。
教室の前で、クラス代表の男子が大きな花束を渡す。みんなで書いた寄せ書きの色紙が手渡される。
パチパチと沸き起こる拍手。たくさんの笑顔、そして堪えきれずにあちこちから漏れる涙。
なのに、マナだけは、手ぶらのまま下を向いていた。何も渡せない。何も、形にできていない。
「みんな、今まで本当にありがとうございました!」
先生が最後にそう言って、教室の引き戸を開ける。
「先生、ありがとうございました!」
みんなが声を揃えて叫ぶ。マナも、声を枯らして叫んだ。
でも。マナが本当に伝えたかった、あの消しゴムで何度も直した一番大切な言葉は。
失くしてしまった手紙の中に、残されたままだった。
数日後。
すっかり先生のいない教室にも慣れ始めた、ある日の放課後だった。
マナがアパートの自宅に戻り、何気なく郵便ポストを覗くと、白い一通の封筒が入っていた。
宛名には、マナの名前。
商工会議所の青年部のイベントか何かで先生が控えていた住所だろうか。差出人の欄には――『佐伯』と書かれていた。
「え……?」
マナは荷物も置かずに、慌ててその場で封を切った。中から出てきたのは、見覚えのある優しい丸文字が並んだ一枚の便箋だった。
『マナちゃんへ。ありがとう。
お手紙、とっても嬉しかったよ。わざわざ届けてくれたのかな?』
マナの頭の中が、一瞬で真っ白になった。
手紙? 読んでくれた? どうして?
驚きで震えるマナの視線の先で、文字が優しく続いていく。
『先生も、マナちゃんの真っ直ぐな笑顔に、学校で何度も助けられました。手紙に書いてくれた言葉、新しい学校でもお守りにして頑張ります。マナちゃんも、元気でね』
読み終える頃には、マナの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、便箋を濡らしていた。
間に合わなかったと思っていた。誰にも届かず、消えてしまったと思っていた。
でも、ちゃんと届いていた。マナは胸に手紙を抱きしめ、夕暮れの玄関先で、声を上げて泣いた。




